TRAVEL あの町で。
3万冊の蔵書に包まれる旅。長野・茅野〜蓼科。前編June 26, 2026
信州八ヶ岳山麓の茅野と蓼科は、古代よりさまざまな人や生き物、そして作家や歌人、映画監督などの文人たちをも惹きつけた、魅力ある土地。茅野在住の生活芸術家、ひがしちかさんの案内で、自然の恵みを実感し、活字のシャワーを浴びるように"知"の豊かさを味わいに行く。

四方八方に収まった書籍から 降り注ぐあまたの"知"。
茅野は豊潤な土地だ。澄み切った青空、降り注ぐ陽光、まぶしい緑、きらめく水。豊かな自然は南東にそびえる八ヶ岳からの贈り物。生活芸術家として活動するひがしちかさんは、9年前に東京から茅野に越してきたとき、すぐにこの土地が気に入ったという。
「山が好きな(夫の)ゆうくんの希望でここに来たのですが、空気と水が最高においしくて、ただ歩いているだけでも幸せを感じました。生きているとどうしてもまとわりついてくるザラザラしたものが、一歩外に出るだけで箒で掃除をしてくれたみたいにさっと流れて清らかになる。そういうことが一番大切だなと、住んでいると感じます」
自然の豊かさは土地の施設や住む人の心にも作用する。約3万冊の本を所蔵する『創業大正十五年 蓼科 親湯温泉』もその一つ。保養地として発達してきた蓼科で、1926年に創業したこの宿は、伊藤左千夫や柳原白蓮、太宰治といった大勢の文人を迎えた歴史があり、文芸への尊敬から本の所蔵が始まった。「こちらには家族で宿泊したことがあるんですが、和洋折衷の内装が素敵です。私の好きな谷崎潤一郎や坂口安吾の本も見つかります」
ロビーから奥へと広がるライブラリーラウンジには、壁面に書棚が設えられ、明治以降の文学や人文系の書籍が並んでいる。ライブラリーの正面右手には、みすず書房の社主が茅野出身という関係で、同社の本が集められた「みすずラウンジ&バー」が。同様に岩波書店の創業者が隣の諏訪市出身であることから、新館へと続く通路の両側を岩波文庫で埋め尽くした「岩波文庫の回廊」もある。読書好きであれば、ひたすら活字に浸れる幸福な場所。"知"が豊かに息づいている。
「茅野に9年住んでいますが、まだ毎日発見があって楽しい。この状態は旅気分とも言えるし、本を読んで新しい何かを得るのと同じような気がして。旅と本って似ていますよね。どちらも、そこに何があるかわからないのに、自ら期待を持って取りに行くもの。時間やお金がかかるからある種の賭けかもしれないけど、マイナスなものは何もなくて、終わった後に必ず何かを得ているんです」
ベーカリー『カルパ』の殿塚夫妻と打ち解けたきっかけも本だった。店内の本棚に知人の平野太呂さんの写真集『POOL』を見つけ、殿塚さんに話しかけたところ、親しくなった。
「彼はスケートボーダーで、太呂さんのファンだったらしくて。店内の2か所の本棚には彼の好きな本が並んでいて、自由に読んでいいんです。トイレにも本があって、そこで見つけた『ポケット詩集』は、真壁仁の詩『峠』が気に入って自分でも買ってしまいました」
ZINEの編集者でもある殿塚さんは、スケボーとパンづくりで平和な社会を目指す。

『蓼科ハーバルノート・シンプルズ』に通うようになったのも、オーナーの萩尾エリ子さんへの深いリスペクトから。
「萩尾さんの著書『八ヶ岳の食卓』を読んで、食べられる野草ってこんなにあるのかとびっくりして。そして萩尾さんは食べてそれを知ったんだと感動すると同時に、何か生きるための〝知〞を問われた気がしました。茅野に来たときに、萩尾さんのような大先輩がいるというのはとても心強いことでした」
今ほど日本にハーブのある暮らしが浸透していない頃に、茅野に来てオーガニックガーデンを作りハーブの力を普及させた萩尾さんを、ひがしさんはこっそり魔女と呼んでいる。「見た目は妖精なのに、約40年前の何もないところからお店やガーデンを作ったなんて、相当パンクな人だと勝手に思っています」

電車の場合、東京方面からJR新宿駅で特急あずさに乗車、約2時間で茅野駅着。名古屋方面からはJR名古屋駅で特急しなのに乗車、塩尻駅で中央本線に乗り換えて約2時間30分で茅野駅に到着。車の場合、東京・調布ICから中央自動車道で約2時間10分で諏訪ICより茅野市内へ。大阪・吹田ICから名神高速道路、小牧JCTから中央自動車道で約4時間で諏訪ICに到着。茅野市内や蓼科は車やレンタカーで回ると便利。

ひがしちか生活芸術家
1981年長崎県生まれ。2010年、一点ものの日傘屋として〈コシラエル〉を立ち上げる。2022年閉業。現在は茅野市のアトリエで絵を中心に作品を制作し、生活芸術という言葉を基点に活動中。著書に『傘の素』『コシラエルとはなんだったのか』(ともにHeHe)などがある。
photo : Masako Nakagawa illustration : naohiga text : Akane Watanuki





































