MOVIE 私の好きな、あの映画。
『パリ、テキサス』/作家・翻訳家 ラムズデール昌栄さんが語る、 極私的・偏愛映画論。October 25, 2026
This Month's Favorite Theme人物を表す、衣装。

くたびれたジャケットと赤いキャップ、ピンクのセーター。
父は、エスカレーターの上に消えていった。
私の結婚式のために、生前一度だけイギリスへ来た。帰国する日のロンドン・ヒースロー空港で、「じゃあ、頑張れよ」と手を振った。一張羅のジャケットにリュックという、いかにも旅慣れない格好だった。父の背中はゆっくり上へ運ばれ、だんだん小さくなり、最後には見えなくなった。
『パリ、テキサス』のトラヴィスを見ると、私はあの背中を思い出す。くたびれたジャケットに赤いキャップ。果てしない荒野を、ひとりで歩いている。
あのころの私は、父にも私の知らない時間があったことを、どれくらいわかっていただろう。私の父になる前の時間。海で泳いだり、誰かを好きになったり、傷つき、何かを諦めたり、それでも朝になれば起きて働いた時間。その人生は、私が生まれるずっと前から続いていた。一本の、長いロードムービーのように。
20代のころ、年上の女友だちにこの映画を教えてもらった。彼女はナスターシャ・キンスキーのことを、「すごくいい女だ」と言った。そのときの表情を、なぜかいまでも覚えている。
当時の私には、その意味がよくわからなかった。美人だとか、色っぽいとか、そういうことではないらしかった。でも、それなら何なのかと聞かれてもわからない。私はまだ、人の顔に、その人の生きてきた時間が現れることを知らなかった。
記憶の中で、ジェーンは赤い服を着ている。
久しぶりに映画を観返して、「あっ」と思った。赤ではなかった。鮮やかなピンクのセーターだった。
記憶は、ときどき勝手に色を塗り替える。いつから私の中で、ピンクは赤になったのだろう。でも、長いあいだ私の中に残っていたその赤もまた、ジェーンだったのだと思う。
ガラスの向こうに座るジェーンのまわりには、赤やピンクの光が満ちている。一方、トラヴィスのいる側には青や緑の冷たい翳りが沈んでいる。暗い場所ほど、わずかな色は宝石のように見える。透明なガラス一枚を隔てた二人は、こんなに近くにいるのに、別々の惑星にいるようだ。
何を愛したのか。何を失ったのか。何を壊してしまったのか。それでも、何をまだ手放せずにいるのか。
いまなら、あの友人の言った「いい女」が少しわかる気がする。きれいに生きてきた人のことではない。生きてしまった時間を、そのまま顔に映している人のことなのだ。
人はみんな、一人乗りの宇宙船に乗っているのだと思う。恋人でも、夫婦でも、親子でも、どれほど好きでも、その人の人生を代わりに生きることはできない。私たちはそれぞれの窓から世界を見ている。
それでも、ときどき軌道が交わることがある。
目が合う。
名前を呼ぶ。
同じ日曜日の花を見る。
その一瞬だけ、遠く離れていた二つの灯りが近づく。
人を好きになるというのは、そういうことなのかもしれない。私たちは出会い、しばらく同じ景色を見て、またそれぞれの場所へ帰っていく。それでも私は、広い宇宙のどこかで、一度でも誰かの灯りを見つけたことを、幸福と呼びたい。
街ですれ違う名前も知らない人にも、遠い国で眠っている人にも、その名前を大切に呼ぶ誰かがいる。
『パリ、テキサス』は、愛する人のもとへ帰ろうとする男を描きながら、愛していても一緒には生きられないことを見つめている。赤いキャップやピンクのセーターの色は、陽炎のように観る者の心に揺れつづける。鮮やかな色彩のひとつひとつに、誰かと生きた時間と、もうそこへは戻れない寂しさが宿っている。
トラヴィスは最後に、またひとり車を走らせていく。夜の中へ。
父も、エスカレーターの向こうへ消えていった。
暗闇のなかにも、目を凝らせば、砕けた宝石のような色が残っている。
ずっとあとになって、それが光だったのだと気づくことがある。

『パリ、テキサス』
Director
ヴィム・ヴェンダース
Screenwriter
L・M・キット・カーソン
サム・シェパード
Year
1984年
Running Time
147分
Watch now 配信はこちらから
illustration : Yu Nagaba movie select & text:Masae Lamsdale edit:Seika Yajima





























