MOVIE 私の好きな、あの映画。

古き良き香港の街並みや情緒が感じられる『スリ』/文筆家 長谷部千彩さんが語る、 極私的・偏愛映画論。August 25, 2026

This Month's Favorite Theme愛しているのに消えゆくもの。

古き良き香港の街並みや情緒が感じられる『スリ』/文筆家 長谷部千彩さんが語る、 極私的・偏愛映画論。

香港の街に、恋をして。

 初めて香港を訪れたときの高揚感はいまだに忘れられない。なんて美しい街なのだろう、と心が震えた。強い日差しが街を彩るすべての色を、より鮮やかに、よりみずみずしく輝かせ、まるで色が躍っているようだと思った。

 情緒あふれる古い街並み。モダンでスタイリッシュなオフィス街。タトゥーが彫られた日焼けした肩に段ボールを担ぐ青年がいるかと思えば、向こうの『スターバックス』では、仕立てのいいスーツを着たビジネスマンがコーヒーを飲んでいる。公園に集い、中国将棋を指す老人たち。その数ブロック先の高級ホテルでは、ハイブランドで身をつつんだマダムがアフタヌーンティーを楽しんでいる。赤いタクシー。鳥のさえずり。緑色の海を渡るスターフェリー。胡蝶蘭は風に揺れ、ネオンサインは雨に濡れた舗道を照らす。ゴトゴトと音を立ててトラムは進む。その混沌に、香港という街に、私は恋をしたのだと思う。

 それから十年、香港に通った。毎月訪港していた時期もあるし、部屋を借りて数か月暮らしてみたこともある。あの頃の私は、会いたくてたまらないひとがいるかのような精神状態にあった。知り合いなどひとりもいなかったというのに。
 この気持ちを誰かと分かち合いたくて、香港好きのひとたちと話してみたことがある。でも、心の中にみな自分の香港像を持っていて会話が噛み合わなかった。ならば香港映画の中に同じ眼差しを持つものはないかと探してみたが、どれも他人の香港だった。
 そんなときだ。ジョニー・トー監督の『スリ』(原題『文雀』)という映画にめぐりあったのは。

 スリを生業とする男が自室で服を繕っている。そこに窓から文鳥が迷い込んでくる。繕ったジャケットを着て街に出る男。自転車に乗り、トラムを追い越し、行き先は仲間の待つ昔ながらの冰室(食堂)だ。たった数分の冒頭だけで胸が高鳴った。
 私に見えているのと同じ香港が映画になってる⋯⋯!
 観光客相手にひと仕事終えた男は、仲間と別れ、ひとり気ままに街を走る。片手で自転車のハンドルを握りながら。もう片方の手でフィルムカメラのシャッターを切りながら。インサートされるモノクロ写真。それらの写真には香港への柔らかな愛が満ちている。三脚を立て、街を撮り続ける男。トップシーンの窓と文鳥のごとく、そのフレームの中に突然美しい女が飛び込んでくる。そこから物語が始まるのだが——。

 “街が真の主役”という映画が私は好きだ。例えば『月の輝く夜に』のニューヨーク、『タンジェリン』のロスアンジェルス 、『ディーヴァ』のパリ、『小さな恋のメロディ』のロンドン、『眺めのいい部屋』のフィレンツェ、『夜の終りに』のワルシャワ、『チ・ン・ピ・ラ』や『ラブ&ポップ』の東京。けれど、その街とは映像の中でしか再会できない。それが資本主義社会における都市の宿命だ。街は常に作り変えられ、最終的には面影さえも消されてしまう。私たちがその街並みをどんなに愛していたとしても。香港だって例外ではない。『スリ』という映画が撮ったものの多くが既に姿を消している。

 そしてこの作品にはもうひとつ、私が愛するもの、愛しているのに消えゆくものが入っている。それは軽さ。クスッと笑って、少しだけしんみりして、最後にもう一度クスッと笑う。映画館で過ごす短い時間をハッピーするために作られるライトなコメディ。洒落た小品というものが、私は大好きなのだが、いまの時代、そういった作品が制作されることはない。映画は軽妙さを忘れ、何かを訴えなければならないものになってしまった。世界の混迷とリンクしているのだろう。寂しい限りだ。

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映画は、文学や音楽、演劇ではできないこと、映像でしかやれないことをやって欲しい。そういう意味で、『スリ』は映画ならではの楽しみを与えてくれる作品。仲間とターゲットをを囲いこみ、次々と財布を抜き取っていくのをワンカットで見せるシーンなど、これだよ、これ! という感じ。自転車四人乗りのシーン、雨の夜の攻防戦シーンしかり。CG無しというのも味わいにつながっていると思う。とてもチャーミングな映画です。有名な作品ではないけれど、このチャート図が気になった方は、ぜひご覧ください。
Title
『スリ』
Director
ジョニー・トー
Screenwriter
チェン・キンチョン
フォン・チーチャン
Year
2008年
Running Time
87分

illustration : Yu Nagaba movie select & text:Chisai Hasebe edit:Seika Yajima


文筆家 長谷部千彩

文筆家。エッセイの他、掌編小説、映像作品のシナリオなど幅広く執筆。Webマガジン〈memorandom〉主宰。著書に『私が好きなあなたの匂い』『メモランダム』(ともに河出書房新社)『有閑マドモワゼル』(光文社知恵の森文庫)がある。2026年7月、10年間のエッセイをまとめた『大人になること』(亜紀書房)を上梓した。

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