TRAVEL あの町で。
北海道・美深町で、本の世界に浸る旅。August 05, 2026
旭川から北に向かって列車で約1時間15分。美深町内には北海道第2位の長さを誇る天塩川(てしおがわ)が流れ、自然はまさに雄大。そして、この町は有名な小説の舞台ともいわれている。羊がのんびりと草をはむこの地で、本の世界を堪能したい。

『羊をめぐる冒険』の舞台といわれる北の町。
《塩狩峠を越えて四日北に進んだところで一行は東から西に流れる川にでくわした。そして合議の末、東に進むことになった》《東に進んで五日め(中略)札幌から道のりにして二六〇キロの地点である》。これは村上春樹の3作目の長編『羊をめぐる冒険』の一節。小説のなかで明治時代の農民が歩いた行程の記述だ。そして彼らが行き着いた先は、役人によって十二滝村という名前が付けられた。
前作『1973年のピンボール』で突然姿を消した友人〝鼠〞を追って小説の〝僕〞は、旭川で列車を乗り継ぎ、かつては村だった十二滝町へと辿り着く。〝鼠〞を探す理由は彼が送ってきた、山と草原、白樺を背景に、羊の群れが写っている一枚の写真。
小説のなかでかなり詳しく場所や風景が描写されていることから、十二滝町は北海道のどこをモデルにしたのか?という考察がされ、現在、北海道中川郡美深町の仁宇布(にうぷ)地区だという説が有力に。
その美深町は、東京23区よりもわずかに大きい面積ながら人口は3600人ほど。森や湿原、川に囲まれ、圧倒的な自然に身をまかせるほかない地は、日常を忘れて、ひたすら本の世界へと没頭するのにふさわしい場所だといえる。
人口は少ないながら、移住者もちらほらと存在する。その一人が、2019年にゲストルーム3部屋だけのホテル『青い星通信社』をオープンした星野智之さんだ。74年前に建てられた警察職員の家だった石レンガ造りの建物を改装。目の前には草原が広がり、宗谷本線の列車が走り抜ける。
「初めて美深に来たのは1951年。僕は東京で雑誌編集者をしていて、村上春樹の小説の舞台だとされる仁宇布地区の『ファームイントント』に取材で泊まったんです。そこがすっかり気に入ってしまい、その後もプライベートで1、2年に1回は訪れるように。それから10年ほどして、『ファームイントント』のオーナーに、それほどひんぱんに来るならここで宿をやってみないか?と誘われ、その気になったんです」と、星野さん。
ここでやる決め手となったのは、建物の風情。今では作ることのできない、石レンガを積んだ外観に一目惚れしたという。
そうしてできたここは、本を読むのに最高な環境が整えられている。北棟には星野さんの蔵書や著書が並ぶライブラリーが備えられ、午後10時までコーヒーが飲み放題。ソファやスツールに座り、コーヒー片手に読書を楽しめるのだ。
さらに、南棟の3部屋のうちの1部屋は、本を読むことに特化した部屋としてしつらえられている。ゆったりとくつろげるソファに座ってページを開くと、時間を忘れてしまうほど集中。心地よく疲労して、ふと大きな窓から外を眺めれば、ふだん目にしないような大自然が飛び込んでくる。現実なのか虚構なのか、自分がどこにいるのか一瞬、わからなくなるほどの没入感を味わえる。
春の爽やかな新緑、夏の萌える青葉、秋の鮮やかな紅葉、そして、冬のシンと静かな雪の景色。どの季節に訪れても、切なささえも感じるほどに美しい、北の果てだ。
読書の合間に、放牧羊に会いに行く。
6月になると星野さんが初めて美深町を訪れた際に宿泊した『ファームイントント』の牧草地に、毛刈りされたばかりの羊が放牧される。この仁宇布地区は町の中心からさらに車で30分ほど東に行ったところにある。
「羊は500頭ほどいて、6月から10月末までは、ずっと外で過ごします。1987年に父が羊牧場を始め、1995年にこの農家民宿『ファームイントント』を作りました」とは、息子の柳生好輝さん。ここでは宿の目の前で、羊の群れを眺められるのだ。宿泊のほか、白樺樹液による清涼飲料水や羊乳製品、羊肉製品も販売。また、羊が小屋に入ってしまう冬には、犬ぞり体験もできる。
もうひとつ、羊が放たれている場所に『粗清草堂』がある。自分たちで育てている12頭ほどの羊の毛を刈り、洗い、フェルトにして、ワンピースなどの衣服と、帽子、ルームシューズなどの小物を製作。ほかに海外から輸入した羊毛や綿、麻糸、天然革など、素材はすべて天然のものを使用している。
「この町に来たのは2005年。それまで羊毛専門店で働いていたのですが、羊のいる風景で暮らせたらいいな、と思って引っ越してきました」と、逸見吏佳(へんみりか)さん。仁宇布に住んだ後、2015年に羊飼いとして働いていた夫の暁史(さとし)さんとともに、この工房を立ち上げた。娘の宇厘(うり)さんやスタッフとともに手作りされる品々は、まとうと羊に抱かれているような気持ちに。
そこから、さらに東へ車で15分ほど進むと、美深町の人気アトラクション「トロッコ王国 美深」が見えてくる。日本一の赤字ローカル線として知られ、1985年に廃止された旧国鉄・美幸線のレールの上を走る、往復10㎞(約40分)のトロッコ運転体験だ。旧国鉄時代の鉄橋などもそのまま活用され、川を渡り、白樺や木々のトンネルのなかを自分で運転できるのは、なかなか貴重な経験。自動車運転免許証は必要だが、アクセルとブレーキ操作のみなので、誰でも気軽に操縦できる。
さらに東へ行くと『ファームイントント』に到着するが、南へと向かうと、標高797mの高層湿原・松山湿原に辿り着く。6月にゲートがオープンし、10月には閉鎖。仁宇布地区に点在する雨霧の滝、女神の滝といった、十二滝町を彷彿とさせる16の滝を見ることができるのも、この季節ならでは。夏に行くならぜひ訪れたい。
また、読書ができるスポットは町にも点在する。ピッツェリア『ビブリオテーク』には、フランス語で図書館を意味する店名の通り、ライブラリーが併設。料理と酒を楽しみながら、釣り好きが高じて移住してきた店主との会話を弾ませたい。加えて、この町唯一の駅である美深駅の待合室にも村上春樹の本が揃った本棚があり、テーブルと椅子も設置。『羊をめぐる冒険』ゆかりの場所を撮影した写真も飾られ、列車が来るまでゆっくりと本を読むことができる。
その上で、持ってきた本を読み終わってしまったら、老舗の書店『二宮美深堂』へ。新たな物語を手にすれば、本をめぐる旅はまだまだ終わらない。


新千歳空港から車で約3時間30分、旭川空港から約2時間。JR宗谷本線美深駅へは札幌駅から特急「宗谷」で約2時間45分、旭川駅から特急「サロベツ」で約1時間15分。札幌の大通バスセンターから、宗谷バス「えさし号」も運行(約3時間50分)。町を流れる全長256㎞の天塩川は、釣り人にも人気。幻の魚といわれるイトウが釣れる。夏は気温30℃近くになり、冬はマイナス20℃程度。積雪は150㎝を超えることもある。
photo : Ayumi Yamamoto illustration : naohiga edit & text : Wakako Miyake






































