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スーツ姿のお客さんと、茨木のり子の「行方不明の時間」。海辺の本屋の日々と本。写真と文:あかしゆか(編集者・『aru』店主)#1September 04, 2026

岡山の瀬戸内海沿いの児島というまちで『aru』という本屋を始めて5年半が経つ。今回の連載では、店を営む中で起きたできごとと1冊の本を紹介していこうと思う。

スーツ姿のお客さんと、茨木のり子の「行方不明の時間」。海辺の本屋の日々と本。写真と文:あかしゆか(編集者・『aru』店主)#1
『aru』からは瀬戸内海が一望できる。

店にふらりとスーツ姿のお客さんがやってきた。周辺にはあまり会社がないのでスーツで来られる方はめずらしい。何か偶然このあたりで仕事があって、そのついでに立ち寄られたのかしら......と様子を伺っていると、じっくり丁寧に、大切に本を選んでくださっていることが伝わってきた。

その方はたくさんの本を買ってくださった。私の店でこういう買い方をする方は、店そのものを目的地としてやってきてくださっていることが多い。帰りがけに少しお話をすると、やはりこの場所に来るために、関東方面からわざわざ来てくださったらしかった。

「でも、ご旅行なら、どうしてスーツなんですか」
そう尋ねると、その方からはこんな返事が返ってくる。

「実は家族には内緒で来ていて。今日は会社に出勤していることになっているのです」

「たまあにそういうことをするんです」と穏やかに、いたずらっぽくそのひとはやさしく笑った。たまった有給やふいに得た代休を使って、日帰りできる、けれども決して近くはない場所にふらりと出かけ、そうして夜には何事もなかったように家に帰るのだと。誰に迷惑をかけるではない、自分のためのちいさな嘘は、私にはなんだかとても素敵に思えた。

後日、「こんなお客さんがいらっしゃったんですよ」とスタッフに話していると、「人間には行方不明の時間が必要ですからね」という言葉が返ってきた。思わずニヤリとして、「私もその詩は大好きです」と返事をする。
茨木のり子の「行方不明の時間」を、近くにあった『茨木のり子詩集』(岩波文庫)から探し出して、再読する。

スーツ姿のお客さんと、茨木のり子の「行方不明の時間」。海辺の本屋の日々と本。写真と文:あかしゆか(編集者・『aru』店主)#1 | 谷川俊太郎選『茨木のり子詩集』。冒頭の谷川さんの文章もすばらしい。
谷川俊太郎選『茨木のり子詩集』。冒頭の谷川さんの文章もすばらしい。
スーツ姿のお客さんと、茨木のり子の「行方不明の時間」。海辺の本屋の日々と本。写真と文:あかしゆか(編集者・『aru』店主)#1 | 「行方不明の時間」は後半あたりにある。
「行方不明の時間」は後半あたりにある。

「人間には行方不明の時間が必要です なぜかはわからないけれど そんなふうに囁くものがあるのです」
『茨木のり子詩集』茨木 のり子 作/谷川 俊太郎 選(岩波文庫)より引用
そんな言葉から始まる詩を読み終わり、ひとつ大きく深呼吸をして、ああ、私にもそろそろ行方不明の時間が必要かもしれないと思った。居場所を知られることなく、俗世間から距離を置き、誰も私を知らない場所へ身を委ねる時間が。物理的には遠くなくてもいい。けれども心は遠く、遠く、離れた場所へ。最近せわしなく過ぎている自分の時間を振り返ってそう思う。

遠からず旅へでよう。
誰にも行き先を告げず、ポワンと一人。

そうしてその旅先で出会った人にだけ、あのすてきだったお客さんのようないたずらな笑顔で、わたしの行方不明の秘密を打ち明けてみるのもいいかもしれない。


編集者・本屋『aru店主』 あかしゆか

あかしゆか
1992年京都生まれ、岡山在住。東京での会社員生活を経て独立。2021年に本屋『aru』を岡山県倉敷市児島で開業し、現在2店舗を経営している。Web、出版、イベント、場づくりなど、媒体を問わず「ことば」に関する編集に携わる。

instagram.com/akyskaa

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