&EYES あの人が見つけたモノ、コト、ヒト。
ゆらりとガタりとまわり。連載コラム : 中瀬萌 #4December 25, 2024
ちょうど1年前の2023年12月にスリランカとインドへ行った。
スリランカへは以前から学びたいと思っていたアーユルヴェーダのトリートメントを受けに。
インドへは、大好きなバンド・Matsumoto Zokuがインドにてフェスに出演すると聞き、現地へ音を浴びに行った。
どちらの国でも、あまりにも日本とはかけ離れた日常があり、それらを、ハプニングとして受け取る。
台風でキャンセルとなったフライトのチケットを取り直そうとしたら、まくし立てるインド英語を聞き取れず、電話口でも窓口でも怒鳴られ、へこみ......。
ホテルのクリーニングに出した衣服が漂白剤で真っ白になって戻ってきたり、乗ったトゥクトゥクで、カードの支払いができなかった時、その辺にいる日本人らしい人に声かけてキャッシュをゲットしてこいと言われたり。
いつも、多くの当たり前をリセットしてくれるのが旅だ。
話は変わるが、わたしはアーティストという肩書きを人間という生き物の上に一枚纏っている。
好きでも嫌いでもなく行為として始めたことが今は生業として続いている。
そんな制作における決め事は一つ、必ず、下絵をすることなく描くこと。
どんなものができ上がるのか、手を動かし始めなければわからない。
どんな色を手に取り、どんなものを描くのか、自分自身に想像がつかない。
だけれど確実にこれまでや今という中の景色が滲むように浮き出てくる。
それを待つし、時には向かう。
私は冒険心としての野心というものはおそらく、さほど旺盛なわけではないが、“感覚”という冒険心を持ってものを作っていくこと、そして人生を歩んでゆくことが好きだ。
自分に合っていると思う。
さて、想像がつかないといえば、山である。山に登ることを覚えたのはいつだろうか。
学校が終われば、小さな頃から裏山に駆け走り、シカやうさぎを見つけたり、ツタを引っ張ってきて縄跳びをしたり。大人になると、身近な山よりも、遠く大きく離れた山に憧れるようになった。興味心からではあるが、正直、背伸びのようなもんだと思う。
遠くからでは内部が見えない。
そこへ行かないと、どんな現実と景色が待っているのか、その人にしかわからない。
予報が晴れでも、雷雨になることだってある。立ってもいられない風が吹く時には見えない力に圧倒され、足の底から頭のてっぺんまで縮み上がる恐怖を覚える。いきなり獣が出てくるかもしれない。
想定と予測はするが、自然というのはそれらをゆうに超えてくることがいくつもある。
だがその、想像のつかなさというのが、次への想像と創造につながる。
先日、世界中のありとあらゆる自然の中の旅をし続ける、カメラマンであり編集者である友人の 小林昂祐さんが書いた本が届いた。
早速読み終わってしまったのだが、さすが、奇行旅をし続ける人、ある意味淡々と記されたこの本の内容はなんともあまりに刺激的。
感情すらも間に合わず、後からゆっくり追いかけてくるような、そんな圧倒的なスケールというものが、そこには存在するのだろう。
本の中に出てくるひとつひとつの場所をグーグルマップで探しながら、こんな場所があるんか......と、そんな遊び方があるのか......と体の芯からウズウズさせてくれた。
世界はやっぱりとんでもなく広い。自分の足が動き続けるうちは、身体を移動させ続け、未知に飛び込んでゆきたい。
旅と絵と山。わたしが続ける3つのことは、全部、円のようにつながっている。
ゆらり、時にはガタりとなりながらも、回転している。旅に出て、絵を描き、山に登り、また旅に出たくなるのだろう。
これらは予定調和の中から少しずつ逸れていくための人生の必需項目となって今、わたしを支えてくれている。そして同時に、多くの困難をもたらしてくれる。
その時々で、こりゃあ大変だなあ、と思う時は、目の前の線を1本でもいいから、今超える、今日超える。明日は明日のこと。ひょい、と行かないことが人生。
計画通りには行かない時こそ、愉しめるような、柔らかい頭とすこしばかり、平気な顔して。
この一年、時に、力満ちて泣きそうになる時もあった。
だけれど、ずっと、あたたかな光に包まれていた。
わたしに、そして皆に、ありがとうと伝えたい。
edit : Sayuri Otobe