マルセル・ブロイヤーThis Month Artist: Marcel Breuer / March 10, 2017
河内 タカ
20世紀のプロダクトデザインと建築に
多大なる影響を及ぼしたマルセル・ブロイヤー
バウハウス出身の建築家でありデザイナーでもあったマルセル・ブロイヤー。今現在、国立近代美術館において「Marcel Breuer’s Furniture」展(〜5月7日)が行われているわけですが、おそらくブロイヤーの名前は知らなくとも、彼が手がけたある有名な椅子はきっとどこかで見たことがあるはずです。それがスチールパイプを曲げてデザインされたという『ワシリーチェア』(正式名『クラブチェアB3』) であり、この椅子はその名前の由来ともなったバウハウス時代の同僚であり芸術家であったワシリー・カンディンスキーのために作られたものだったのです。
この鉄と革でできた絶妙ともいえる形状の椅子が画期的だったのは、もともと自転車のハンドルとして使われていたスチールパイプを使うといった斬新な発想の転換であり、さらに自分で工具を使い組み立てができたりと、まさに来るべき大量生産にも向いた未来的な発想に基づいて作られていたのです。デザインをする上で、ブロイヤーはできるだけ装飾性を排除しながら機能性を重点に置いていたことは、彼が学んだバウハウスの理念、つまり美術や建築やデザインを統合した総合的な芸術を目指していた同校の哲学をストレートに反映させたモダニズム精神に根ざしていたからです。
1902年にハンガリーのペックスという町に生まれたマルセル・ブロイヤーは、美術を学ぶためにウィーンに出て、卒業後は地元の建築事務所に務め、その後ドイツのヴァイマルに向かい、当時できたばかりの「国立バウハウス・ヴァイマル校」の第一期生となります。そこの初代校長だったヴァルター・グロピウスに見出されたブロイヤーは、学生の頃から家具のデザインをするようになり、卒業後は同校の家具学科の主任マイスターになりました。その後1928年までデッサウに移転した「市立バウハウス・デッサウ校」で教えるも、1930年代初頭からナチスら右翼勢力が台頭していったため、ユダヤ人であったブロイヤーは身の危険を感じロンドンに移住、その地で恩師グロピウスとともに2年間を過ごし、その頃から成型合板による家具デザインを始めました。
ロンドンでは「アイソコン社」の主任デザイナーとして雇われ、そこでの仕事を通して彼の真骨頂となるプライウッドを歪曲させる工夫をいち早く試めたのですが、このことはアルヴァ・アアルトが手がけていたアームチェア『パイミオ』という先駆的なプロダクトはあったものの、米国においてチャールズ・イームズらが同じプライウッドを使った家具を発表するずっと前のことであり、この点においてブロイヤーの実験性と先見性はひときわ高く評価されているのです。
1937年、グロピウスのあとを追ってアメリカに渡ったブロイヤーは、ハーバード大学の大学院で教職に就き、そこでフィリップ・ジョンソンら若手建築家たちを育て、同時にボストン近郊の住宅デザインなどを手がけていきました。そして1946年にはニューヨークで「マルセル・ブロイヤー&アソシエイツ」を設立し数多くの建築を手がけていくわけですが、その当時の代表作にパリの「ユネスコ本部」(この仕事で初めてコンクリートを使用した)や、踏み階段をひっくり返したような独特の形状を持つNYの「旧ホイットニー美術館」などが挙げられます。
ブロイヤーが生み出したプロダクトは、様々な工業部材を使って新たな機能を持たせながら、同時に幾何学的で水平と垂直を意識したような作りが特徴でした。また、建築においては流れるような曲線美を生み出す一方、ホイットニー美術館のように打放しコンクリートを用いた彫塑的な表現を打ち出した先駆者でもありました。とにかく、このような業績によって、ブロイヤーは20世紀におけるプロダクトデザインと建築に大きな影響を及ぼし、そして今もなおモダニズムにおける父的な存在として賞賛され続けている偉大な人物であるのです。