河内タカの素顔の芸術家たち。
河内タカの素顔の芸術家たち。
小村雪岱Settai Komura / February 10, 2021
江戸の粋をモダンに生まれ変わらせた画家
小村雪岱
小村雪岱(せったい)のことを初めて知ったのは、「OSAMU GOODS」の生みの親として知られるイラストレーター・原田治氏の著書『ぼくの美術帖』にこの画家のことが熱く書かれていたからです。この本の中で原田さんは「大正・昭和の小村雪岱の画業は、文学と密着した装本に、挿絵の間に実を結んでいます。絵巻物の昔から、江戸時代の絵本を経て、雪岱の仕事に至る一つの流れを、ぼくは雪岱の仕事の上に見ます。選んだ絵の様式美が古典的であるだけでなく、画家として歩んだ道も古典的と云えるでしょう。しかもその流れの中では、実に新しい仕事をしていました」と書き残しているのです。
1887年に現在の埼玉県川越市に生まれた雪岱は、東京美術学校で下村観山より学んだ後、卒業後に美術雑誌国華社に入社し、古画の模写に従事。江戸の粋の源流である鈴木春信を崇拝し、日本画家として画壇へ作品を発表する一方で、装幀、挿絵、舞台美術といった商業美術の分野においてその名を轟かせました。余白と静謐とが絶妙に調和したような作風を特徴とし、女性を描く時に「個性のない表情のなかにかすかな情感を現したい」と繊細さと風情を同時に醸し出していました。
「雪岱」というのは画号で、本名を泰助といいます。名付け親は、敬愛する14歳年上の作家・泉鏡花でした。まだ無名だった雪岱を一躍有名にしたのも、1914年に出版された鏡花の小説『日本橋』の装幀だったのですが、この時、鏡花は小説の完成までタイトルを知らせておらず、直前になって「日本橋」になると聞かされた雪岱が慌てて表紙の絵をやり直したという逸話も残っています。雪岱が27歳のときに手がけたそのブックカバーは、川に面した蔵の周りを様々な色の蝶が軽やかに舞うというカラフルなものであり、最初期の仕事ですでに完成されたデザインであったことが驚きです。
装幀の仕事に加えて、挿絵画家として雪岱の代表作に挙げられるのが、邦枝完二の新聞連載小説のために描かれた『おせん 傘』という一作です。この絵の元になっているのは、江戸時代に実在した谷中の水茶屋の看板娘「笠森お仙」がモデルとなった悲恋物語。おせんにまとわりつく徳太郎と彼をいさめる彫り師の松五郎を見ようと集まってきた傘を持つ人だかりに埋もれるように、黒頭巾姿のおせんが走り去るシーンが描かれているのですが、細い縦線で表現された雨と連なるような蛇の目傘の円形線による簡潔で大胆な構図が強烈に記憶に残る傑作となっています。
この挿絵が描かれたのは1937年で、原田さんが語っているように絵の様式美は古典的であるにもかかわらず、とても新しい感覚が息づいています。他にも『青柳』という作品では、二階から隣の家の室内を見下ろすという大胆な構図で、小さな芽まで描かれた柳が垂れる縁側奥の畳間に三味線と鼓がポツンと置かれているという不思議な雰囲気が漂っています。それはまるで人のいない舞台のようであり、どこかミニマリズム的なアートや現代のグラフィックデザインにも通じる美意識が感じられるのですが、こういった作品を見てぼくは一目で雪岱のファンになってしまったほどです。
とても残念なことに、人気作家となり仕事が次々に舞い込む日々が続いたため、1940年10月に脳溢血のために53歳で亡くなってしまった雪岱。長い間、文芸や演劇の世界に耽溺し、本の装幀、小説の挿絵、舞台装置や舞台衣装を専門とし、本絵と呼ばれる絵画や版画の数も比較的少なかったためか、日本画壇の範疇で語られることの少ない作家でした。しかし、「画家」と呼ぶには収まりきらないほど多岐にわたり、革新的な様式をそれぞれの分野に導入した功績は高く評価されるべきですし、江戸の粋をモダンに生まれ変わらせた彼の仕事を目の当たりにすれば、「意匠の天才」と呼ばれこともあるほど、近年ますます評価が高まっているのも当然のことだなと思えるんですよね。
展覧会情報
「小村雪岱スタイル-江戸の粋から東京モダンへ」展
会期:2021年2月6日(土)~2021年4月18日(日)
会場:三井記念美術館
http://www.mitsui-museum.jp/exhibition/index2.html
「複製芸術家 小村雪岱 ~装幀と挿絵に見る二つの精華~」
会期:2021年1月22日(金曜日)~3月23日(火曜日)
会場:千代田区立日比谷図書文化館 1階 特別展示室
https://www.library.chiyoda.tokyo.jp/hibiya/museum/exhibition/komurasettai.html