MOVIE 私の好きな、あの映画。
『Rungta』オーナー 波賀真由美さんが語る今月の映画。『あなたの名前を呼べたなら』 【極私的・偏愛映画論 vol.91】June 25, 2023
This Month Theme美しい暮らしのある町に出合う。
光と闇のコントラストを感じる、インド最大の都市・ムンバイ。
大きな事件も起こらず、美女もヒーローも出てこない。全然インドらしくない、とても静かな作品です。でも、インドの今がしっかりと描かれています。舞台はインド最大の都市・ムンバイ。ムンバイは仕事で何度か訪れたことのある街ですが、私はこれほど活気のある両極の街を見たことがありません。
イギリス統治時代のコロニアル建築が今も現役で使われながら、超高層ビルが立ち並ぶ。街は見る角度によって19世紀のようにも21世紀のようにも見えます(街歩きをしていると、時々頭が景色に追いつけずクラクラします)。
商業と娯楽の街で、インドで一番大きな財閥系企業とインドの巨大映画産業“ボリウッド”(ハリウッドになぞらえて)で有名です。一方で、世界で一番大きなスラムを抱えています。光と闇。きらきらしたものと目を覆いたくなるようなもの。そのすべてがあるのがムンバイで、時々、息をのむほどに美しいムンバイの夜景が流れます。
この物語の主人公は、そんなムンバイに出稼ぎに来ている農村出身の未亡人ナトラ。物語は、メイドとして働く彼女の日常を描きながら進んでいきます。雇い主は建築会社の御曹司で、ムンバイの街を一望することのできる高級マンションに住んでいます。この家のインテリアが素敵です(特にその色使い! 都会の富裕層の美しい暮らしを垣間見るようで楽しい)。
やがて、彼女の境遇が見る側の私たちに明らかになり、若いのに時々老婆のようにみえる理由がわかります。淡々と進む物語の中で、時々はっとするのは、主人公が“好きなもの”を追いかけている時の表情です。洋裁教室へ通うための教材を買いにバイクで街へくりだす場面の笑顔。カラフルな布にリボンに所狭しと並ぶ手芸用品を楽しげに探す様子。本当はこういう顔の人だったのだと、とても切ない気持ちになりました。
この映画の女性監督 ロヘナ・ゲラは、差別が残るインド社会に変革を起こしたいという情熱でこの作品を作り上げたといいます。お互いに優しさを差し出しあえたら、目の前の人が、自分と同じ、喜びも悩みもあるひとりの人間だということに気づけたら、世界はもう少し自由で寛容で優しい場所になるのに。この物語のように。
「翼みたいに両腕ひろげ生きてみよう。おそれずに。失うものは何もないから」
繰り返し流れる主題歌は監督からのメッセージ。恋愛映画の形をとりながらのすべての女性(男性にも)向けたエールを、私もしっかり受け取りました。
illustration : Yu Nagaba movie select & text:Mayumi Haga edit:Seika Yajima