MOVIE 私の好きな、あの映画。
〈smbetsmb〉アートディレクター 新保美沙子さんが語る今月の映画。『Rams』【極私的・偏愛映画論 vol.94】September 25, 2023
This Month Theme暮らしの中にエレガンスが滲む。
慎ましく、奥深いものづくり。
エレガンスというと、頭に浮かぶのは、20代の終わりに出合ったカリグラファーであり、大使夫人でもあった女史だ。彼女は文字の歴史から文字に対する振舞いを惜しみなく教えてくれた。文字に配慮し、物書きに敬意を払い、言葉を扱う。そして姿勢、筋肉、呼吸法といったフィジカル面からも美しく書く技術を身につける。技術や教養を学び続ける先にある精神的自立。自立によって自己を大切にする心が芽生え、やがて他者を慮る力が生まれる。いまもなお、歴史に埋もれた書体に光をあて、研鑽を積む姿は門生の手本でもあり、彼女ほどエレガンスという言葉が似合う人はいない。
「エレガンス」という言葉は、女性にだけ向けられたものなのだろうかと、ふと思った。“less, but better(より控えめに、より良く)”。あまりにも有名な言葉となり、その意図を後進に伝え続けているデザイナー、ディーター・ラムス。彼の仕事の姿勢に敬仰した映画『Rams』がある。
彼の仕事はエレガンス、慎ましいという言葉が似合うと思っている。物静かなデザイン、実現のための努力、そして実生活においても、慎ましい眼差しはどこまでも続く。些細なことに目を配り、耳を澄ませ、自戒する。
彼のデザイン言語は、彼にしか分からないようにも見え、長年勤めた〈BRAUN〉を離れる際の経営陣との軋轢、そして現代社会への懸念、その孤高な姿に胸がつまった。このレビューを読んでいる貴方にとってデザインというものが遠い存在であったとしても、このドキュメンタリーを見てほしい。道具は使うものだが、なんでもよいわけではない。使い勝手は優先されるが、できれば美しいものであってほしい。それは使う貴方を美しく見せ、そのひとつの道具が、周囲に働きかけ、場を整えていく。もちろん、時間に限りはある。経済的な理由もある。しかし、安易な利便性を求めることは、慎ましくはない。僅かな不自由さがあなたの生活にゆったりとした時間を与えるかもしれない。多機能ではないことがユニークで、愛着となるかもしれない。彼が遺したデザイン哲学に心が躍り、彼が遺したプロダクトに夢を覚え、この哲学を引き継いでいく人びとがひとりでも多く存ってほしいと心から願うのだ。
ぜひ、本編だけでなく、サブストーリーも見てほしい。〈BRAUN〉時代の仲間でもあった、ディートリッヒ・ルブスのインタビューがある。ラムスとの出会いを思い返すなか、鮮烈にフラッシュバックしたであろうラムスとの協働に、瞬きを何度もし、言葉につまるのだ。私も泣けて、泣けて仕方がなかった。
慎ましく、奥深いものづくりは、受け入れられないことも多々ある。つくることは孤独だ。しかし同志がいる。ラムスは事を為すうえで「適切な人材を見つけること。協働によって何かを達成できるような人を」と答えている。ルブスはラムスを「父のよう」と表したが、互いにとって、デザインはもちろんのこと人生を共にし、導きあっていることを証明している。
これから何十年も時が経ち、ラムスらが世に送り出したプロダクトはガラスの向こうでしか観ることができなくなり、プロダクトの在り方が現在とは変わっているかもしれない。しかし、彼の哲学は古びず、いつでも私たちに勇気を与えるはずだ。
illustration : Yu Nagaba movie select & text:Misaco Shimbo edit:Seika Yajima