日本の美しい町を旅する。
島根・松江へ、穏やかな流れが古き町並みを結ぶ水の都。前編July 23, 2024
その土地でしか味わえない食や、ものづくりに出合うことは、旅における大きな楽しみのひとつ。さらに、その町に暮らす人たちが織り成すカルチャーに触れられれば、より一層、旅の思い出が心に刻まれるもの。訪れたのは、『風土記』の頃から豊かな実りをもたらす宍道湖。そのほとりに堅固な城と町が築かれて400年余、今も松江の暮らしの隣には水の気配がある。案内人はこの町で生まれ育った料理家の太田夏来さん。昔ながらの堀をめぐり、滔々と流れる川辺を歩けば、城下町の伝統と新たな文化が共存する松江の素顔が見えてくる。この記事は島根を旅した前編です。後編は7月23日更新です。
Landscape_刻一刻とうつろう宍道湖の夕暮れに旅人も住む人も、鮮やかに染まりゆく。
Craftwork_静謐な佇まいの『objects』で、目利きが選び抜いた、器に出合う。
Culture Spot_外から新たな風を呼び込む町の書店『アルトスブックストア』へ。
父から受け継いだ書店をセレクトブックショップ『アルトスブックストア』(松江市南田町7−21)に模様替えして20年ほど。
Food_ 松江人の誇り、伝統の蕎麦と和菓子を今に伝える『神代そば』と『風月堂』。
徳川家康の孫・松平直政により信州松本から松江にもたらされたという出雲蕎麦。割子と呼ばれる三段重ねの漆器で供される蕎麦は、色黒で香り高い挽きぐるみだ。『神代そば』(松江市奥谷町324−5)では原料の玄蕎麦を地元を中心に吟味、石臼で3度挽きして歯切れの良い十割蕎麦を打つ。本枯れ節と伝統の料理酒「地伝酒」で仕込み、2週間寝かせた蕎麦つゆも「甘すぎないのが好みです」。
茶人大名として名高い藩主、松平不昧公の影響で市中に茶の湯が浸透し、和菓子の文化が育まれた松江。今なお市内には多くの和菓子舗が点在する。なかでも明治19年創業の『風月堂』(松江市末次本町97)は、松江で青春時代を過ごした陶芸家・河井寛次郎も愛した老舗。
The Guide to Beautiful Towns_島根
古いものと新しいものの心地よいバランスに寛ぐ。
北に長くのびる島根半島の山並み、南に幾重にも連なる中国山地。その合間に横たわる宍道湖が川となって流れ出す場所に城と共に築かれた松江の町は、水と切っても切れない間柄にある。町を横断する大橋川や天神川、縦横に張り巡らされた内堀や外堀。その多くが昔ながらの姿を保ち景色に彩りをもたらすとともに、見る人に400年余りの歴史を感じさせる。「松江はなにげなく歩くだけで視界に必ず水辺が映る町」と語るのは太田夏来さん。松江で生まれ育ち、現在は故郷に拠点を置き、日本各地でイベントなどに携わる。食を通して松江の町や店とも太い縁を持つ料理家だ。
「この町の人間にとって水辺は日常とともにあるもの。位置を表すにも“橋北”“橋南”や“湖北”“湖南”と、大橋川や宍道湖を軸に考えてしまうくらいです」
太田さんにとって当たり前だった松江のあり方が実は特別なのだと気づいたのは、仕事で遠出をするようになってから。
「行く先々で素敵な町やおもしろい人に出会いますが、帰ってくるたび良い町だなと思い直します。水辺が視界に入ることで自分の中に余白が生まれる。“潤い”や“余裕”と言い換えてもいい。心の底からほっと息がつけるんです」
そんな松江人の感覚を追体験できるのが堀川遊覧船だという。松江に招いた友人と乗船するのが何よりの楽しみだ。
「ふだんと違う視点から見る町は発見がいっぱい。松江城のお堀沿いの家に水辺へ続く階段を見つけたり、橋の多さに改めて気づいたり。低い橋をくぐるときに船を覆う屋根が下りてくるのですが、乗り合わせた全員で身を低くしてやり過ごすのもアトラクションとして楽しい! 旅に来たなら、移動手段としても案外便利かもしれません。さらに一日の締めくくりに宍道湖の夕景が見られたら、絶対に松江の良さを感じるはず」
山陰と呼ばれるだけに訪れた日が必ずしも快晴とは限らないかもしれないが、たとえ雨が降っていても曇りでも、水墨画のように重なるグレーのグラデーションを楽しんでほしいと太田さん。
「広い水辺があることで町の表情が一層豊かになるのでしょう。どんな天気でも、それぞれに美しい。私はしっとりとした雨の日が一番松江らしくて好きですね」
江戸時代の町割が残る松江には趣ある老舗が健在で、城下町の伝統を今に繋いでいる。その代表格が和菓子と出雲蕎麦だ。
「松江人の誰もが贔屓の店を持っていて、伝統と一緒に暮らしている感覚があるんですよね」
太田さんが子どもの頃から両親と共に通う『神代そば』の当代は伝統を継承する作り手として、同志と切磋琢磨しながら日々うまい出雲蕎麦を出す。また先代がバーナード・リーチら民藝の指導者と親交のあった『風月堂』では、祖父の誠実な仕事ぶりを孫の当代が受け継ぎ、シンプルながら日常で愛される和菓子を届けるべく黙々と小豆を選り分け、餡を練る。
「作るのは、その日に売り切る分だけ。おいしさはもちろん、和菓子の姿のかわいらしさや包装紙の古風な美しさにも惹かれます」
こうした文化の送り手と受け手の幸せな関係は老舗に限らない。衣食住をテーマに本と雑貨をセレクトする『アルトスブックストア』は、新たなカルチャーを松江に呼び込んできた存在。日本各地から作家や職人を招いての企画展が次々と開かれている。「新たな知の世界が開ける感じ」と太田さん。さらに『objects』が生まれ、民藝を愛する人が目指す拠点が松江にできた。多国籍料理が振る舞われるカフェ『Green’sBaby』には、幅広い年代の地元民がそれぞれふらりと立ち寄り、自然と相談事や情報が寄せられるという。
「私は『Greenn’sBaby』を密かに『町の寄り合いどころ』と呼んでいます。他の店でも、偶然知り合いがいて『久しぶり!』『元気?』と声がかかることがとても多い。気づけば近くのお店同士が互いにファンとなったり、イベントを共催したり、ゆるやかに繋がりながら文化の波紋を広げつつある。そこで感じるのは、集まる人をフラットに受け入れる懐の深さと風通しの良さです」
それは融通無碍に形を変えて万物を包み込む水にも通じる。かといって不用意に近づきすぎない距離感は、旅人にも心地よい。
「居心地の良さに延泊する友人も多いですね。昼間に見た器が、夜に出かけた料理屋さんで使われていたり、カフェで居合わせた地元の人と旅の人が飲み屋さんで偶然一緒になったり。町の繋がりを実感できる小さなサイズ感もいい。住んでる気持ちで町のハブになる場を訪れ、人の輪に飛び込んで松江の素顔に触れてほしいですね」
太田夏来 料理家
松江市出身。京都の料理家のもとで和食の経験を積むとともにスリランカで現地の料理を学ぶ。現在は松江を中心に市内で料理教室などを開催。東京や京阪神にも出向きイベントやワークショップ、レシピ開発に携わる。
東京・大阪方面から空路で出雲縁結び空港へ。松江駅まで空港連絡バスで約40分。東京からは21時50分発の寝台列車「サンライズ出雲」を利用すれば、翌朝9時30分台には松江駅に到着する。松江市中心部の移動は市内を循環する「ぐるっと松江レイクラインバス」や、レンタカー、レンタサイクルが便利。
photo : Masako Nakagawa illustration : Junichi Koka text : Mutsumi Hidaka