河内タカの素顔の芸術家たち。
フィンセント・ファン・ゴッホの傑作が生まれた場所【河内タカの素顔の芸術家たち】Vincent van Gogh / May 10, 2023
ゴッホの傑作が生まれた場所
ブルターニュの景観に魅せられたポール・ゴーガンに対して、そのゴーガンの友人でもあったフィンセント・ファン・ゴッホを魅了した場所が、フランス南部のアルルとサン=レミでした。ゴッホが35歳の時に移り住んだアルルには今でも彼が描いた風景や建物がわりと残っていて、まばゆいばかりの陽光に照らされた色鮮やかに咲き乱れる花々や樹木を現地で目の当たりにすると、ゴッホの絵の色彩が劇的に変化していったのも「ああ、この景色と光がそうさせたのだな」と素直に納得してしまうはずです。
1888年2月、パリを出発し南仏に到着したゴッホは、その時の印象について友人の画家・ベルナールに宛てて次のような手紙を送っています。「まず、この地方が空気の透明さと明るい色彩の効果のため僕には日本のように美しく見えるということから始めたい。水が風景のなかで美しいエメラルド色と豊かな青の色斑をなして、まるでクレポン(日本版画)のなかで見るのと同じような感じだ」(『ファン・ゴッホの手紙』みすず書房)と。その言葉通り、ゴッホはこの地で『アルルの跳ね橋』や『ひまわり』、『夜のカフェテラス』など、後世に残る傑作を次々と描き上げていくのです。
ちょうど同じ頃、ブルターニュのポン=タヴァンで制作していたゴーガンが経済的に苦境であることを知ったゴッホは、いてもたってもいられなくなり、広場に面した黄色い外壁の2階建ての家を借り、弟テオの仕送りを頼みにゴーガンを呼び寄せ、念願だった二人の共同生活が始まります。しかし、彼らの関係は最初からかなりギクシャクしたものだったようで、性格も合わず衝突するばかりで、結局、ゴーガンはわずか2ヶ月でパリへ帰ってしまう結果となり、その後孤立してしまったゴッホは、徐々に精神の異常をきたして地元の市立病院に収容されることになるのです。
その入院中に、ほっさや極度の幻覚に悩まされ、時には1ヶ月も単独の病室に閉じ込められ、絵を描くことを禁じられた時期もあったといいます。4ヶ月後にどうにか退院にこぎつけたものの、近隣からのクレームもあり黄色い家にはもう住めないことを知ったゴッホは、アルルから20キロ北東にあるサン=レミ=ド=プロヴァンスの療養院に入院することを自ら選択します。今は「エスパス・ヴァン・ゴッホ」と呼ばれているこの施設では、テオの計らいで二つの病室が用意されたようで、その一部屋をアトリエとして使うことを特別に許可されたため、療養中も絵は続けることができたのは幸いでした。
療養中のゴッホは精神的にも環境的にも不安定な状況下であったにもかかわらず、今も忠実に残されている病院の中庭を描いた『アルルの療養所の庭』をはじめ、病室の鉄格子の窓の下に広がる黄金色の麦畑、病院からも見ることができるアルピーユ山脈の風景などを描き残しました。さらには、近隣のオリーブ畑や独特のくねくねした形状をした『糸杉』、その延長として山並みの上に輝く星と三日月にS字状にうねる夜の雲を描いた入魂の傑作である『星月夜』を完成させたのでした。
このように世に知られているゴッホの代表作のほとんどが南仏の地で描かれたこと、しかもそれらがわずか2年間のうちに仕上げられたこと知った時の驚きとともに、なにかに追い立てられるようにキャンバスに向かう必死の形相のこのオランダ人画家の姿を思い描いてしまうのです。やがて1890年春にはどうにか精神状態も安定し、この療養院を退院することになったゴッホは、『糸杉と星の見える道』を描き終わると、同年5月に医師のポール・ガシュを頼って、パリから30キロ離れたオーヴェル=シュル=オワーズへとひとり向かったのでした。