河内タカの素顔の芸術家たち。
河内タカの素顔の芸術家たち。
前川國男This Month Artist: Kunio Maekawa / March 10, 2019
戦時中に建造されたモダニズム建築
日本人として初のル・コルビュジエの弟子としてパリの事務所で働き、帰国後はアントニン・レーモンド事務所で五年間働いていた、日本におけるモダニズム建築のパイオニアだったのが前川國男です。その前川が設計し長く住んだ家が、東京小金井市にある〈江戸東京たてもの園〉の敷地内に保存されています。
園内には、維持がわりと難しいとされる三十あまりの様々な日本の建造物が移築され一般公開されているのですが、昭和時代の木造モダニズム建築がそれほど多くは残っていない中、日本建築と西洋のモダニズムの優れた要素を組み合わせた前川邸の価値はひときわ高く、たてもの園の中でも個人的には真っ先に見るべき場所としてお薦めできます。
前川がこの家を建てた場所は品川区上大崎でした。彼がその場所を選んだ理由は、敷地に生えていた一本のケヤキの木が気にいったからだったそうですが、前川邸と同時代に作られた他の家屋との大きな違いが、窓から差し込む光に溢れる家ともいえる移住空間の明るさかもしれません。伝統的な日本的な美をテーマにした谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』は、日本の家屋の暗さに日本人の美意識を見いだしていたわけですが、前川の家においてはその真逆とまでいかなくても、二階分ほどの高さがある吹き抜けのリビングの南側全面が窓になっているため、グリッド状の格子からの光によってとても開放的かつ心地よい空間が広がっているのです。
前川邸が建てられた1942年(昭和17年)の日本は“暗黒の時代”、つまり太平洋戦争へまっしぐらに突き進んでいた頃でした。そのため建築用の資材が限りなく制限され、さらには延床面積も厳しく規制されていたのです。そのため、正面から見ると五角形をしたこの家は、外部から和風に見えるように瓦屋根を使用し、さらに空襲に備え焦げたかのような黒色に塗って目立たせないようにするという選択がされていました。
さて、あえて目立たせないように工夫した外観とは対照的に、その室内においては可能な限り広く開放的にするために、師であったル・コルビジュエから学んだピロティ形式が使われていて、南面の中央に大きな柱、そして反対側の北面にそれよりも短いものを立て、その二つの支柱で屋根を支えることで、広々としたリビングスペースを確保しています。そして、これは戦時中ならではだと思うのですが、使われている丸太の柱はなんと要らなくなった電信柱を再利用したものであり、それほど建築用資材が不足していたということなのです。
前川邸は、夫妻が引っ越した後にいったん解体されてしまったものの、破棄してしまうにはあまりにももったいないという前川の弟子たちの強い要望により、この建物のすべての部材が軽井沢の別荘に保管されました。後年、そのことを藤森照信が知り1996年からたてもの園での展示に向け、前川が住んでいた頃の状態に復元されたという経緯がありました。
この家は前川が住んでいたときの雰囲気が感じられるように、使用していた家具や調度品や照明や電話などが置かれていて、当時の暮らしぶりが感じられる空間になっています。ともかく、戦争の真っ只中に建てられたものとは想像しがたいほどスタイリッシュであり、前川が切り開いた昭和のモダニズム精神を象徴し、前川建築の本質が盛り込まれたこの素晴らしい建築物を是非とも訪れてみてくださいね。