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母の入院と『夢のうた』。写真と文:熊谷充紘 (本屋『twililight』店主) #1October 06, 2025
階段を上がる足音で、どんなお客さんか想像してしまうのは悪い癖だ。一度も想像が当たったことはないのだから、人ひとりの存在感は、わたしのちっぽけな想像力を遥かに超えている。
エレベーターのない古いビルの3階。1階の看板には、「本屋&ギャラリー&カフェ」と書いてあるだけで、下からじゃどんな雰囲気かわからないわたしの店『twililight(トワイライライト)』。だからこそ、わざわざ階段を上がって来てくれる足音は、わたしにとっていつだって福音だ。
入り口正面のレジカウンターに座って、お客さんをニタニタと待ち構えるわたしと目が合った途端、引き返す人もたまにいる。しかしわたしは懲りることなく、顔が見えたお客さんと目を合わせ、微笑む。
「こんにちは」
「こんにちは。母が、母が入院しまして、何か入院中に読むのにおすすめの本はありませんか?」
時々来てくれるそのお客さんはいつもイヤホンをしていて、こんにちはと挨拶をしても目を合わせて会釈するだけだった。ぐるりと店を回り、レジに戻ってくると手に馴染んだ1冊を差し出し、カフェでお茶を飲みながらひと時を過ごしていく。

だから今日は、その人にとっていつもとは調子が違う日なのだけれど、ちっぽけなわたしにできることは、いつもと同じく、求められている本を差し出すだけだ。
「どんなお母さまなのですか?」
「母は、ピアノの先生です。自宅に生徒を招いて教えています。平日の日中は、ピアノの部屋とリビングは教室になるので、わたしは家に帰ってきたら2階にある自分の部屋に直行します。下から聞こえてくるピアノの音をなんとなく追いながら、図書館で借りてきた本を読むのが夕食までの過ごし方でした。月に1回、『こんにちは、調律師です』とお兄さんがやってきて、ピアノを検音する様子を、うっとりとした表情で眺めている母が印象的でした。今思えば、ちょっと好きだったんじゃないかな。調律がだいたい終わった頃には連弾して音を確かめていました。きっと言葉にできない思いを交えていた。両親はわたしが高校生になった頃に離婚しました。わたしを引き取った母は、レストランのディナータイムでピアノを弾くバイトを始めました。どうしても東京の大学に行きたかったわたしは、奨学金をもらって一人暮らしを始めました。以来、母と会うのは実家に帰る、年に1回くらい。そのたびに、新曲を弾いてくれます。母もずっと一人暮らしでした。そして3日前、『入院したよ』って電話があったんです。『なんもやることがなくて死にそうだよ。わたしからピアノをとったら何にも残らない。わたしの人生って何なんだろうと思ったら、あんたの顔が思い浮かんだ。って、恩着せがましいよね。わたしはあんたを産んで育てるために生まれてきたわけじゃないし、あんたもわたしを選んで生まれてきたわけじゃない。何なんだろうね、人生って』『俺は産んでくれたことを感謝してるよ。おかげでここまで生きてこれた。毎年新曲を弾いてくれるのが楽しみだった。でも、本当は、何だってよかったって今思ったよ。ピアノじゃなくたって何だって、俺を迎えてくれる母さんがいればさ、それで十分だって思ったよ』。明日、見舞いに行くんです。入院でちょっと落ち込んでるから、何か本をあげたら喜ぶかなって」
「なるほど」
わたしは店内を周遊し、本を眺めていく。
「お母さまはなぜピアノの先生になったのですか?」
「わかりません」
「どんな本を読まれるのですか?」
「母が本を読んでいるのを見たことがありません」
そんな会話を交わしながら、焦点を絞っていく。このお客さんがよく買われる本棚に向かって。
「わたしのちっぽけな想像力では、お母さまがどんな本が喜ばれるか答えを出すことはできません。ただ、わたしがお客さまを通してお母さまに差し上げたい本は、ここに1冊あります」
そう言って短歌の棚から、短歌アンソロジーの『夢のうた』(左右社)を差し出す。
「お客さまがよく読まれている歌集であれば、プレゼントしやすいと考えました。そしてこの歌集のテーマである夢とは、もうひとつの世界です。きっとお母さまは小さい頃にピアノの音色を聞いて、きれいだって思ったのではないでしょうか。自分の手からこんなきれいな音を出せたら夢みたいだって思って、習い始めたのではないでしょうか。ピアノを弾いている間だけは、他のことを忘れて夢中になれる。ピアノがあれば、言葉にできない思いを表現することができる。だからお母さまは、本を読む必要がなかった。けれどピアノと離れている今は、もうひとつの世界を感じられなくなっているのかもしれません。この歌集は、今を生きる歌人100人がうたった100首の『夢』の短歌が集められています。どのページも夢への入り口です。ピアノがなくても、病室にいても、人は夢を見ることができます。あり得る未来を思い描く力が人にはあります。この機会に親子二人でこれからどうしたいか、夢を思い描いてみてはいかがでしょうか」
お客さんが階段を下りていく足音は、上りよりもゆっくりと落ち着いている。もちろん、ここで転げ落ちたら元も子もないから慎重になっているんだろうけれど、増えた本の分だけ地に足が着いているんだと、勝手に思ってニタニタしている。
本屋『twililight』店主 熊谷 充紘
