MOVIE 私の好きな、あの映画。
極私的・偏愛映画論『ある画家の数奇な運命』選・文 / 山崎幹(「LITTLE TOY BOX」オーナー) / December 28, 2020
This Month Theme主人公のコーヒーライフが素敵。
ほんの一瞬、コーヒーが誰かの人生を温める。
私が「LITTLE TOY BOX」というコーヒーと焼き菓子のお店を経営していく中で大切にしているのは、コーヒーは主役じゃなくて誰かの人生のほんのひとときを癒し、心のスイッチのON、OFFをサポートすること。毎日のあたり前の存在でありたいと思っています。だから私の好きな映画もコーヒーがメインに取り上げられるような作品ではなく、ほんの一瞬、コーヒーが誰かの人生を温めているような何気ないシーンが好きです。最近の1番のお気に入りは『ある画家の数奇な運命』。
舞台はナチス政権下のドイツ。少年クルトは芸術を愛する叔⺟の影響から、絵画に親しむ日常を過ごしていた。ところが、もともと繊細な感情の持ち主だった叔⺟は突如、精神のバランスを崩し強制⼊院を強いられ、国家によって⾏われていた精神疾患患者への“安楽死政策”によって命を奪われてしまう。
それから数年後ついに終戦を迎え、成⻑したクルトは東ドイツの美術学校に進学し、そこで出会った亡き叔⺟の⾯影を持つ⼥性、エリーと恋に落ちる。だが、その出会いには悲劇的な宿命が秘められていることを、⼆⼈は知る由もなかった。
「真実は美しい。真実を描きたい」。美しいものと向き合い続ける主人公のクルトは、現代美術の巨匠ゲルハルト・リヒターをモデルにしていて、名画の誕生秘話としても楽しんで観ることができます。
そして、ストーリーの中で印象的なコーヒーのシーンが3つ出てきます。
主人公クルトがエリーと結婚。厳しい思想統制下の東ドイツから、自由な芸術表現を求めて西ドイツに渡った緊張感のある場面。劇場に行ったり、街を散歩したりした後に、カフェでひとつのカップのコーヒを飲みます。言葉を交わさず、ふたりで静かな時間を過ごす。西ドイツで始まった新しい人生への不安や安堵をほんのひととき、コーヒーが温めているような風景がただただ純朴で美しいと感じます。
もうひとつはクルトが義理の父と食事をするシーン。義理の父は戦前、“安楽死政策”の中心的な医師だった自身の犯罪行為を隠し、世界中を優雅に旅しながら逃げ回り、ある時ドイツに戻ってくる。クルトとレストランで食事を済まし、コーヒーを注文していると、安楽死政策の主犯格が捕まってしまったという号外が飛び込んでくる。自分も捕まってしまうかもしれない。激しく動揺する義理の父の心を落ち着けるための一杯となってしまう。そこでオーダーされたのは、まろやかなカフェラテやアメリカーノではなく、真っ白な陶器に注がれたエスプレッソと砂糖のセット。思いがけず私の口の中にはガツンと強い、なんとも言えないエスプレッソの味が広がっていました。
そして最後はクルトが通う美術学校の教授の部屋にクルトの傑作の絵が届くシーン。ヨーゼフ・ボイスがモデルであろう、フェルテン教授。彼が放つ言葉は、クルト自身の原体験を見直すきっかけになるほど、物語において重要な鍵を握る。
ここではコーヒーを飲んでいるシーンはなく、授業から戻ってきた教授の部屋のデスクの上に、飲み終えた空のフレンチプレスがそっと置いてある。その一瞬の風景の中に教授のライフスタイルが窺えるとても柔らかな空気感がじんわりと心に残る。
3時間という大作は非常に情熱的で官能的。音楽、映像美、芸術の美しさに引き込まれ、静かで力強い光と闇を見せてくれます。どんな環境にも左右されず、理想の生き方、人の愛し方を貫いた静かな強さに胸が熱くなります。
『ある画家の数奇な運命』地域によって公開中。
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