ヨハネス・イッテン文/河内 タカThis Month Artist: Johannes Itten / August 10, 2017
バウハウスで色彩芸術を推進した
カリスマ的教育者、ヨハネス・イッテン
ヨハネス・イッテンは、1919年にドイツに設立され工芸や美術や建築の総合的な教育機関であった「バウハウス」に大きな影響を与えた一人として知られている芸術家であり教育者です。バウハウスでは画家のワシリー・カンディンスキーなどが教えていたことは有名ですが、「色の組み合わせによってどのように印象が変わるのか」といった配色の調和に関しての独自の色彩論を教えたことによって、同じバウハウスで教えたジョセフ・アルバースとともに色彩学の分野において多大な影響を及ぼし、そして今もその業績が語り継がれているという人物なのです。
イッテンは1888年にスイスのズューデレン・リンデンという町に生まれました。同じスイス生まれのパウル・クレーも同時期にバウハウスで教えていたものの、クレーは初代校長だったグロピウスに気に入られ10年近くも教えていたのに対し、イッテンはわずか4年でバウハウスを解雇されることになってしまいました。その理由として、「理論こそが知識として持つことが重要である」と提唱したイッテンが、学校教育という枠を超えたような東洋の精神論を打ち出したりしたことで、合理化や機能主義を目指していたグロピウスの考え方に合わなくなっていったのかもしれません。
そのエキセントリックな面を裏付けるように、バウハウスで教えていた当時のルックスというのが、ガンジーのようなスキンヘッドに丸メガネをかけ、どこか舞台衣装のような変わった服に身を包んだ僧侶のようなのです。そんな強烈な風貌のマイスターが学生たちに向かって、「デザインの法則の知識に拘束される必要はない。私が教える知識こそが君たちを迷いから解放するのだ!」と伝道師のように熱心に理論を教えていたとするならば、当時バウハウスで学んでいた若者たちがイッテンの講義に惹きこまれていた姿が思い浮かぶのです。
さて、バウハウスを追われたイッテンはというと、いったんはスイスに帰郷するものの、やはり根っこからの教育者気質だったのか、今度はなんと自分自身で学校をベルリンに開校することとなります。それが後に「イッテン・シューレ」と呼ばれるようになる美術学校でした。実はこの学校には日本の自由学園から山室光子と笹川和子という二人の留学生が在校し、また教える側にも画家の水越松南や竹久夢二がいたのですが、今も日本とイッテンとの関係が取り上げられるのはこういった関わりがあったからです。
イッテンの色彩理論は、赤・青・黄の3原色をベースとしながらも色彩の対比には全部で7種類あり、このバリエーションを知ることによって人間の様々な感情が表現できるはずだと教えました。加えて、色彩を知ることで自分の表現を探し出すことができるという考えのもと、自らの授業の前には必ず生徒全員に体操や瞑想をさせ、色彩学を人の生活や身体的なものへと浸透させていくことを実践していたそうです。
イッテンの独特の考え方や理論は、自身の著書である『色彩論』の翻訳本や、彼に直接学んだ日本人たちを通して、戦後の日本のデザインや織物や染色にも大きな影響を及ぼしていきました。イッテンという人は美術家としてももちろん優れていたものの、むしろ教育者としての道を極めていったところがユニークなところで、そのことはアーティストをやりながらデュッセルドルフ芸術アカデミーで教えたヨーゼフ・ボイスあたりにも通ずるのではないでしょうか。ともかく、人の創造力というものが世界にいかに貢献できるかということを信じ、それを教えるために教壇に立ち続けたイッテンのことを知ることで、今の時代においても新たな発想や可能性を見いだせるのではないだろうかと思えてしまうのです。