音楽家・青葉市子×写真家・小林光大「Choe」
音楽家・青葉市子×写真家・小林光大が紡ぐ、旅と日々の記憶。Choe「境界線」May 09, 2020
クラシックギターを片手に国内外を旅する音楽家の青葉市子さん。各地でインスピレーションを汲み上げながら、日々、言葉と音楽を紡いでいます。その旅に同行し風景を切り取っているのが、写真家の小林光大さん。日々の生活に戻っても、互いの存在と作品は呼応し合い、ときには小林さんの写真を通して青葉さんが創作することも。
この連載では、旅と日常とまたぎながら2人が生み出したものを「Choe」と名付け、青葉さんのエッセイと音楽、小林さんの写真を交えながらお届けします。2人の旅と日々の記憶を、お楽しみください。
前回から引き続き沖縄への旅から生まれたものを、波の音とともにお届けします。
境界線
2020.2.4 古座間味にて収録。
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息を吸う、身体いっぱいに。
風が頬に当たる。その時、乾いていく水はぺたぺたしている。
「真冬に海に入る人なんて、島には滅多にいないけど、今は水が澄んでてきれいよ」
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素潜りの皮膚に波の情報が撫でられる。
ゆっくり息を吐きながら、水温を迎える。
長くは入っていられないなとすぐにわかる。
古座間味の海は、入ってすぐに、深い。
足の爪先から太腿へ、お腹まで、一気に水温が下がる。
大きな風の束が一休みしたら、引いていく波に身体を預け、砂を蹴る。
浮いた。
潜ってみると、もうとっくに足はつかない。
まるで海がまるごと振動しているような大きさで、心臓が鳴っている。
荒い呼吸は首まで来ている海面に反射して大きく聴こえ、その息を聴いてさらに呼吸が速くなる。
あるところで緊張が解け、なにか諦めたように脱力する。同時に視界も開ける。
しばらく波と同化していると、一点を見つめられるようになってくる。
小さな瑠璃色の魚が1匹だけ
下の珊瑚にいるな。
ふと、身体が止まった。
水中から沖の方へ顔をやると、
もう海底がどこだかわからないほど暗かった。
そのとき聞こえたのは誰の声だったのだろう、
「ここは境界線です」
「ここは境界線です」
聞き間違いかと思って、もういちどその身体の止まった場所へ泳いでいくと、やっぱり聞こえるのだ。
なんの境界線?
人間の
ここを越えるとどうなるの?
人間じゃなくなる
人間じゃなくなってはいけないの?
人間は、どこからどこまでが、人間なの?
波に押され海水を思いきり飲んだ。
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小さな瑠璃色の魚が1匹だけ
下の珊瑚にいるな。
すこしでも波に揺られると見失ってしまいそうな、その小さな瑠璃色の魚に目を凝らしていると、目の前を新幹線のような速度で魚の群れが走り抜けた。
右から左へ、左から右へ、
大量の目が、流れていく。
その大量の目を見た、ということは、
つまり目が合っていたということだ。
託されていた水中カメラで、群れの尻尾に向かってシャッターを切った。
![](https://img.andpremium.jp/2020/04/24161207/4_77540031_2-1024x679.jpg)
目が合ったときわたしは、あの魚たち1匹1匹と散らばり合って、魚なのか人間なのか、海なのかも冬なのかも、今が本当に今なのかもわからなくなって、世界の掟とされるすべてが細かく解かれて、そしてここにいるのはもう、目が合う前のわたしではなくなってしまっていることに、しばらくぼうっとしていた。
わたしは、常にわたしではない。
わたしを保っていることなんて一度もできないようになっている。
別々に生まれてきた理由は、きっと。
あなたを見つめているとき、わたしがあなたを見ているのではない。
あなたが、わたしをとらえているのだ。
そして、わたしたちがいるここは、わたしたちが選んだここでもあり、ここがわたしたちを選んでいる。
同じように。
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鳥だ。
凪いだ。
仰向けでいた。
雲が晴れると海水も一気に温かくなる。
水が温かいのではない、光が温かいのだ。
両耳は空気の響きを忘れて、
水の震えをとらえている。
鼻歌をすれば、覚えていないはずの記憶が
強烈に近く訪れる。
記憶と呼んでいいのだろうか、
知らないはずなのに、深いところで確かにわかるようなことが、この世界にはぽつぽつ存在している。
その塊は気まぐれに世界を漂っていて、時々、出逢うようになっている。
背中にシャリリと珊瑚の感触がした。
立ち上がると身体は重かった。
境界線の声はもうしない。
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music & text:Ichiko Aoba photo:Kodai Kobayashi