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オチの無い世界。連載コラム : 小林和人#4February 28, 2025
ある朝、妻と駅のホームで電車を待っていると、線路の向こうの茂みが微かに揺れていることに気づいた。
雀だろうか、などと話しながら眺めていると、青々とした葉の隙間から茶色の毛並みがちらりと見える。
「野鼠かしら、まぁ…」。すぐ側に立っていた初老の婦人による、独り言と呼び掛けのあいだぐらいの呟きによって、ゆるやかに会話がはじまった。
ほどなくして電車が到着して自ずとそれぞれの時間に戻ったが、そこには、ふと舞い込んだ一葉の和みだけが残った。
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このような、抑揚もそれらしき終わり方もない話というのは、近ごろ少しずつ生息地を脅かされてきているような気がしてならない。
たとえば飲み屋のカウンターで、あるいは地下鉄の車内で漏れ聞こえる会話などで耳にしたことはないだろうか。「その話、オチあるの?」というフレーズである。
他愛のない話題でも、SNSの投稿でも、オチをつけるのがマナーであるかのような流れが生まれ、個人的な想い出をそのまま断片として放つことを自制するようなムードが広がりつつあるように感じる。
ドラマや映画においても同じだ。伏線として回収されない解釈の空白地帯は一切残すべからず、というような空気が醸成され、伏線回収率と作品の評価が同義になってしまうのも遠い未来ではないような危惧すら覚える。
そうなってくると、もはや松尾芭蕉によるあの名句も危うい。
「川に蛙が飛び込んで…、それで?」。
余韻は一切ノーカウント。膝を打つような結末以外はもはや事故扱いに等しい。
こういった、オチを要求することへのプレッシャー、すなわち「オチ圧」が、このところ少し高まりすぎてはいないだろうか。
しかし、そんな風潮からの避難所ともいうべき場所を、最近見つけた。
それが、公共放送にて形を変えながら70年以上続いてきた『ひるのいこい』という、奇跡のような長寿ラジオ番組である。
リスナーたち(おもに60代以上)による葉書が読まれ、合間には往年の楽曲が流れる、という基本構成なのだが、その投稿の内容のパーソナルな視点は「これでいいのだ」という悟りを我々にもたらしてくれる。
「庭のブルーベリーが、たわわに実っています」という季節の便りや、「道ゆく親子のお喋りに触発されて、私もお昼にカレーうどんを食べました」という些細な報告など、その日常の断片のどれもが、我々に素朴な憩いをもたらしてくれる。
この「とるにたらなさ」に、どこか救われる気がしてしまうのは、おそらく私だけではないだろう。
もう、これからは話のオチのことは手練れの噺家たちに任せよう。そして、些事は些事のまま、ただ余白に漂わせることの勇気を取り戻そうではないか。
ようこそ、ここはオチの無い世界。
何処からともなく、とりとめもない出来事が波のように打ち寄せ、砂浜に染み込むように消えてゆく…。
edit : Sayuri Otobe
『Roundabout』『OUTBOUND』オーナー 小林 和人
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