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東京の埋立地で、幻の博覧会の痕跡を探してみる。写真と文:長谷川 香 (建築史家) #4January 28, 2026
2025年10月、大阪・関西万博(正式名称は「2025年日本国際博覧会」)は大盛況のうちに閉幕した。当初はいろいろと批判もあったが、最終的に一般来場者数は約2500万人にも及んだという。私も5月と9月に会場を訪れ、人生初の万博を楽しんだ。

大屋根リングの上に登り、会場を一望した。リングの中にひしめく個性豊かなパビリオン群は興味深かったが、振り返ると、それらとは対照的に閑散とした海が広がっていた。

会場の周囲でたくさんのクレーンが稼働している様子も印象的だった。おそらく、噂のIR(総合型リゾート)関連の工事だろう。万博によって大阪の臨海部の都市景観は一変したが、万博後もその変化は止まらないようだ。

よく知られているように、大阪では1970年に万博(正式名称は「日本万国博覧会」)が開催されており、今回の万博は2度目である。かたや、東京では1964年、2021年にやはり2度のオリンピックが催されたが、万博の経験は一度もない。なんとなく、東京はオリンピック、大阪は万博という役割分担ができあがっている。
それでは、東京は万博とは無縁なのかというと、実はそうではない。明治30〜40年代、日本で最初の国際的な博覧会が企画された際、その会場候補地は東京の青山と代々木だった。結局、財政難により実現しなかったが、実はこの2つの会場候補地が、その後、前回の連載で取り上げた明治神宮外苑・内苑となった。
そして、昭和戦前の東京では、再び壮大な博覧会構想が持ち上がる。その名も、「紀元2600年記念日本万国博覧会」。「紀元2600年」とは、初代天皇である神武天皇が即位してから2600年周年であることを意味する。西暦でいうと1940年にあたり、日本中でさまざまな記念イベントが企画されたが、万博はその目玉のひとつだった。メイン会場は現在の晴海・豊洲一帯の埋立地。大阪・関西万博でもそうだったように、未開発の埋立地は万博会場を建設するのに好都合だったのだろう。着々と準備が進められたが、日中戦争が勃発し、この構想も幻に終わった。

年末、銀座で買い物をするついでに、晴海通り (都道304号)沿いを南東に向かって歩いてみた。買い物客で賑わう銀座4丁目交差点から東銀座、再開発が進む築地を通り過ぎ、勝鬨(かちどき)橋を渡り、下町風情が感じられる月島、そしてタワマンが建ち並ぶ晴海へ。銀座と埋立地を繋ぐこの道は、実は、日本大博覧会が実現した暁には、晴海のメイン会場へと至る主要動線となる予定だった。今も現役の勝鬨橋は、1930年代に万博開催を見越して工事が進められ、1940年に竣工した。万博会場の工事は中止となったため、幻の万博の存在を伝える数少ない(おそらく唯一の)遺産である。
勝鬨橋は築85年を迎え、修復工事の真っ只中だった。本来は中央部分が跳ね上がり、船が通行することができる可動橋だが、車の交通量増加により、1970年以降は開かずの橋になっているそうだ。その構造をじっくり観察すると、溶接技術が発達した現代では使われなくなった無数のリベット鋲が歴史を感じさせる。
ちなみに、晴海のさらに先にある臨海副都心と呼ばれる埋立地(台場・青海・有明一帯)では、1980〜90年代に「世界都市博覧会」という大規模な博覧会(都市博であり、いわゆる「万博」ではない)が計画された。
これもやはりバブル崩壊後に中止となったが、その構想のなかで整備されたゆりかもめや夢の大橋などのインフラは、現代の臨海部の都市景観を形作っている。
大阪の夢洲で万博を楽しんだ方には、ぜひ東京の埋立地で幻の博覧会の痕跡も探してみてほしい。
建築史家 長谷川 香





































