国吉康雄文/河内 タカThis Month Artist: Yasuo Kuniyoshi / October 10, 2017
ヨーロッパとも日本とも異なる
米国におけるモダニズム画家、国吉康雄
20世紀初頭、若干17歳にして一人アメリカに渡った後、苦労の末に画家デビューし、やがて米国を代表するまでの画家としての地位を築いた一人の画家がいました。国吉康雄です。ぼくが以前ニューヨークで絵を描いていた頃、国吉の油絵をホイットニー美術館などの常設展で見ることができ、それを見るたびに彼の存在や経歴というのはどうしても意識せざるをえない日本人画家の代表格でした。
国吉は1889年に岡山市に生まれ、前述したように10代半ば過ぎにシアトルに向けてカナダ経由で長い船旅に出ました。彼の渡米の動機やきっかけはあまりはっきりとはわからないのですが、ぼく自身、10代の終わりにアメリカの西海岸に行こうと思ったのも、アメリカを肌で感じてみたい、英語を話せるようになりたいという少年っぽい単純な動機だったから、もしかしたら国吉の場合もそれに近いものだったんじゃないかと思います。
渡米後、鉄道行員など肉体労働で生活を支え、その後はロサンジェルスに移った国吉は、英語ができなかったがゆえにイラストを描いて説明していて、そのことがきっかけとなり画学校に通い始めた頃から画家になることを意識し始めます。そして、1910年に今度はニューヨークへ行き本格的に絵を習得するべく学び続けました。その頃のアメリカの美術というのは、パリに比べまだまだ圧倒的に遅れを取っていたわけですが、1914年に行われた「アーモリーショー」というかなり肝いりの展覧会においてヨーロッパの最先端アートが紹介されたことに(その展示は見ていなかったものの)国吉もまた大いに刺激を受け、それ以降、彼もそんなモダニズムの精神を感じさせるような絵画を描くようになっていきました。
翳りのある女性、仮面や道化師、サーカスの少女、または日本を思わせる牧歌的な風景などを画題とし、絵を描くときには実際のモデルを使いながらも、日本にいた頃の情景などを散りばめたりすることで、シュールさかつどこか哀愁さが感じられるのが国吉の絵の大きな特徴です。アメリカの評論家はそんな国吉の絵を「東洋趣味とモダニズムのユニークな混合」と評し、日本的な要素を見い出していたそうですが、なによりも様々な欧米の美術の要素を吸収していたことが感じられるのです。加えて、絵のタッチの繊細さや独特の色使いなど、「国吉調」ともいえる要素や技法が混在しているところもまた彼を際立った存在として評価されていると思います。
米国のアートが独自性というものを模索していた頃に、”アメリカ人ならでは”というものを追求していた国吉は、同年代だったトーマス・ベントンや少し下の世代であるベン・シャーンとの類似性も多くみられ、それを踏まえるとやはり歴史的にも重要なアメリカン・アーティストとして見られるべき人なのでしょう。しかも、NYに今もある「アート・ステューデンツ・リーグ」の教授として長年にわたり多くの若手アーティストに教え、画家を支援するための美術家協会の初代会長に就任したことも高く評価されている要因かもしれません。
戦中は「敵性外国人」として幾多の差別を強いられたり、生涯アメリカ市民にもなれなかったにもかかわらず、高い創作意欲を維持しながら独自のスタイルを築きあげた国吉。そんな彼が後に日本からニューヨークに移住し制作していた岡田謙三や猪熊弦一郎たちにとって、大きな目標であり糧になっていたのだろうなぁと自分の体験を踏まえて思ってしまうわけなのです。