MOVIE 私の好きな、あの映画。
イラストレーター 山口洋佑さんが語る今月の映画。『ノマドランド』【極私的・偏愛映画論 vol.115】June 25, 2025
This Month Theme心を穏やかにする旅に出たくなる。

自然の中の一部である自分を確認する。
「心穏やかでいる」とはどういうことなのだろうか。 夫のボーの死後、ネバダ州エンパイアの石膏採掘場の閉鎖により、町は郵便番号(ZIPコード)も抹消され、住民は町から退去せざるを得なくなる。そして、主人公のファーンはバンライフを始める。働く場所を転々とするギリギリの生活は傍から見ればとても心穏やかとは思えない状況。しかし姉との対話から察するにファーンは昔から外の世界を彷徨うノマド的性質を持っていたようだった。
「ボーは天涯孤独だったから私が町を去れば——彼の存在した証しが消えてしまう」。ファーンが語る。夫を失い、町を失った彼女は社会的にはとても辛く孤独に見えるが、彼女が唯一エンパイアの平凡な自宅で特別だったと語ったのは、裏庭から見える遮るもののなく広がる砂漠とその先の山々の景色。彼女にとって長年連れ添った夫と町の生活はとても大切なものだったと思うが、同時に彼女はどこかでこの“エンパイア”が崩壊することも待ち望んでいたのではないか。
ファーンが求めていたのは、限定的なコミュニティの繋がりより、常に移動しながらこの星の自然の中で自分もその一部であることを確かめ、感じ続けることのように見える。しかし、今やそれは同時に夫と町を失い、希薄になった自分という存在を確かめる術でもあったのかもしれない。この相反するような感情のせめぎ合いがファーンからは常に感じられる。同じようにバンライフを送るスワンキーは癌を患い余命幾許もないが、自然と触れ合い美しいものを目にしてきた体験を語り、その時「あまりに美しくてこの瞬間に死ねたら幸せ」だと思ったと言う。 息を呑むような瞬間を体験すると、時間がなくなる気がする。過去も未来もなく、「今、すべてがある」。「今」と言った瞬間「今」でなくなるくらいの「今」。留まってしまうとそこには時間が堆積してしまい、良くも悪くも人はそれに取り憑かれる。自分が自分であることを忘れてしまうほどに。 ファーンはきっと自分が自分であることを感じ続けるために動き続けていたのではないだろうか。それを感じるために、遠い星の話を聞き、山に向かって自分の名を叫び、まだ見ぬ砂漠の先へとバンを走らせるのだろう。 自分が自分のままであり続けること。それが心穏やかでいられる唯一の方法なのではないか。 同僚の腕に彫られたモリッシーの詩が物語っている。「家とは心の中にあるもの」。


『ノマドランド』
Director
クロエ・ジャオ
Screenwriter
クロエ・ジャオ
Year
2021年
Running Time
108分
illustration : Yu Nagaba movie select & text:Yosuke Yamaguchi edit:Seika Yajima
イラストレーター 山口洋佑
