LIFESTYLE ベターライフな暮らしのこと。
作家・西加奈子さんが見つけた生きることの尊さ。生き方が素敵な人が、大切にしていること。June 03, 2023
2023年5月19日発売の特集「あの人は、どう生きてきたのか」。暮らしを取り巻く状況が変化し、自分らしい生き方を模索してきたここ数年。日常を取り戻しつつある今、これからの人生を心から楽しむためのヒントを、自分らしい素敵な生き方を実現している人々から学ぶ特集です。ここでは、2021年の夏に、一時的に拠点を移していたバンクーバーで、乳がんを宣告された作家の西加奈子さんに、異国の地でどのように病気と向き合ったのか。この経験から得た、生きることの尊さを聞きました。
いま息をしている身体へ感謝し、 ありのままの自分を丸ごと愛する。
自分は弱い存在である。その事実を受け入れる。
今年4月に刊行された、西加奈子さんの最新刊『くもをさがす』は、自身が罹患した「がん」について綴った初めてのノンフィクションだ。2004年のデビュー以来、まっすぐな言葉と軽快な筆致で人気を集めてきた西さん。作家としてのキャリアを積み、結婚、出産といくつかの転機を経た彼女が、夫と子どもとカナダのバンクーバーに拠点を移したのは’19年のこと。2年間という期限付きの滞在を予定していた。
「いつかは暮らしてみたいという思いがありました。自分の本を英訳する夢もあったので英語を勉強するために。バンクーバーは子どもにも動物にも優しいと聞いてて、実際に行ってみたらなんていい街!と」
豊かな自然と美しい街並み。移民も多く、多様性が認められている。どんな立場の人にも人権が尊重され、平等の精神がある。みな親切でフレンドリー。時間に追われてあくせくしている人はいない。おおらかで成熟した街の雰囲気が一気に好きになった。2年の滞在予定が、もう少しいたいねと、3年に延長。バンクーバー生活を満喫していた矢先、がんを宣告される。’21年の夏だった。
「判明したのは乳がん。宣告を受けたときは、なんとなく早期発見で治る、とどこかで思っていました」
だがしかし翌月の精密検査の結果では、ステージ2Bのトリプルネガティブ乳がんで変異遺伝子を持っている体質だということが判明。さらに翌年1月には、抗がん剤治療中に新型コロナウイルスの陽性になった。
「最初は『まさか私が』と思っていた気持ちは、『どうして私が』に変わりました。自分が一体何をしたというのかと、ひどく落ち込みました」
怖い、辛い、しんどい。西さんはそのときの胸の内を日記につけていたが、同時に自分が直面している事実をそのまま作品に書こうと決めた。
「もちろん怖いことは嫌だった。でもこの怖さを的確に表現できるのは自分だけだという思いはあった。しんどい気持ちなんてないほうがいいけど、思った以上は忘れたくないし大事にしたい。それが私の生を尊重することになると思いました」
とにかく目を逸らさず、心を見つめる作業をした。それを文字にした。すると自分の身体をよく観察できるように。外からの視線を持って書くことで、癒やされ、救われた気持ちになった。抗がん剤治療、両乳房の切除手術、放射線治療を経て、寛解(かんかい)。この経験を通して、西さんはこれまで以上に自分の存在を愛おしいと思うようになったという。
「こんなに人に愛され、慈しまれた8か月の治療期間はなかった。いま息をしているだけですごいこと。毎日目覚めるだけで『生きたい』という願いがずっと叶い続けている。抗がん剤の治療に耐えたから私の身体が素晴らしいわけでなくて、44年間生きてきたという、それだけですごいことだと気づいた。本当はもっと褒めてやるべきだった。自分自身にこんなに愛された記憶が残るのは、後の人生においても大切なこと」
辛い治療もあったことで身体にはトラウマも残っている。けれども今回の出来事はそれらを上回る経験だった。今後、書くものに対しても視点は変わっていくだろうと西さん。
「自分の小説は、いわゆる被害者側に語りかけるような、被害者にならないよう変化を促すようなところがあった気がするんですけど、これからは自分が加害者にならないように注意したい。今回、自分は弱い人間だと改めて感じた。それは身体的なことではなくて、自分は『強い』と思い込んでいたその気持ちが逆に弱さだったということに気づいたんです。自分の弱さに対峙せずにいると、人間は得体の知れない恐怖から強さを得たくなる。そうなったときに加害性を帯びてしまう。弱さを認めれば、少なくとも誰かを傷つけていることに自覚的になります」
西さんが自分の弱さに気づいたのは、病気を経験したこともあるが、日本で作家としての地位を築きながらも、カナダでは一時滞在中の〝いち外国人〞であったことも大きい。
「日本では、文学賞もいただいていたし、ある程度生活も安定していたし、自分で頑張れば、仕事も暮らしも大きく困ることはなかった。でもバンクーバーでは、言葉がままならないからいろんな人に助けてもらわないと生活が成り立たない。病気になってもどうしたらいいかわからない。誰も直木賞なんて知らん、西加奈子なんて作家知らんっていう状況に置かれて、私はただの丸腰の人間だということを思い知った」
異国の地で何者でもない自分は、周囲の支えがなければ生きられない徹底的に弱い存在だと気づかされた。
「私はとにかく『弱い』『間違う』『みっともない』。それはネガティブなことではなくて、ただの事実として受け止めていこうと。『わかるで! そういうときあるよな』と寄り添って、むき出しの自分を丸ごと愛してあげる。丸腰の自分が愛おしいと思えた気持ちは、この先もずっと大事にしていきたいと思います」
西 加奈子 Kanako Nishi 作家
1977年、イラン・テヘラン生まれ。エジプト・カイロ、大阪で育つ。2004年、『あおい』でデビュー。2015年に『サラバ!』で直木賞を受賞。今年4月、がん治療中の自身の経験を綴った『くもをさがす』(河出書房新社)を刊行。
photo : Tomoyo Yamazaki edit & text : Chizuru Atsuta