音楽家・青葉市子×写真家・小林光大「Choe」
音楽家・青葉市子×写真家・小林光大が紡ぐ、旅と日々の記憶。Choe「奄美紀行」July 11, 2020
クラシックギターを片手に国内外を旅する音楽家の青葉市子さん。各地でインスピレーションを汲み上げながら、日々、言葉と音楽を紡いでいます。その旅に同行し風景を切り取っているのが、写真家の小林光大さん。日々の生活に戻っても、互いの存在と作品は呼応し合い、ときには小林さんの写真を通して青葉さんが創作することも。
この連載では、旅と日常とまたぎながら2人が生み出したものを「Choe」と名付け、青葉さんのエッセイと音楽、小林さんの写真を交えながらお届けします。2人の旅と日々の記憶を、お楽しみください。
前回に引き続き、奄美大島への旅から。南の島で想った命の行方を、梅雨の東京で回想します。
奄美紀行
初日のジェットコースターのような飛行機と、嵐の天候にわたしたちは目が回っていた。深く眠ったあと、こしあんのような夜空めがけて蛙が歌っている。コロロロ、コロロロ、キョケキョケキョケ、、この蛙はきっと随分前からここに棲んでいる。布団をかぶったままルーフトップに出る。アルミのベンチに深くしずみ、蛙のうたが昇る夜空を見上げれば、はやくはやく流れてゆく雲はほんとうに龍のようだった。龍と交差するようにツーと緩やかな流れ星が通る。流れ星もいた。流れている星の中に人工衛星があった。目で追いかけられる光を、見えなくなるまで追いかけていた。新月の下、丘の上で星を見る子どもたち。風が吹いていた。海では灯台が回っている。
ザアー、ゴロゴロゴロゴロ、しゅう、
ザアー、ゴロゴロゴロ、しゅう、
ホノホシ海岸の石たちはみんな揃ってまんまるだった。握り拳ほどの大きさで、波を受けては艶やかに濡れ、ぶつかり合う音を柔らかく包んでいた。石のひとつのように丸まりじっと耳を済ませていると、自分も恐竜かなにかの卵になったようで安心した。石の隙間に波が入り込んでゆく音は、大地の洗濯のようで、どんどんと心のひだが磨かれていった。うす紫と橙とねずみ色のまざった空が一斉に役目を終えて暗転してゆく。丘の宿へ向かう車中で、拾った貝たちが合奏していた。
かつてレストランだった古い丘の宿ではキッチンが開放されており、町中にぽつぽつとあるグリーンストアというスーパーで奄美の魚を買い、アクアパッツァを作る。ズッキーニ、木の子、セロリ、ブロッコリー、オリーブやトマトなどと一緒に白ワインで煮込む。生もずくを酢でほぐし、茹でたハンダマと和える。広いタイルの空間にひたひたと裸足で歩くと、空間いっぱいに足音が響いて気持ちがいい。たくさんのテーブルや椅子があったのだろう、その空間を贅沢に使って、わたしたちは窓辺の席で夕食をとった。船着場の光源が眩しく波間に揺れて、空と海の真ん中ではまるで客船のような時間を過ごしたのだった。
時折ここではコンサートが行われていたらしい。昔から使われていたアップライトピアノが置かれたままになっており、時間があれば蓋を開けピアノを弾いた。毎日の始まりや終わりに海を見ながらピアノが弾けるなんて夢のようだった。ほどよく湿気った鍵盤にミュートぺダルを踏み、どこまでも丸い音に包まれる。目を閉じればホノホシ海岸のまんまるな石たちの歌と共鳴している。奄美で見つけた美しい景色を、日々持ち帰ってはゆっくりと音に表してゆく、まるで宝石箱のような丘の上のお宿。そのひととき。
わたしはここの貝の形の洗面器が好きだった。少ない肌着を手洗いして、風と日差しを読みながら窓辺に干した。風呂場の窓からは裏の森が見え、覚えたばかりのルリカケスの声がキョーイキョーイと部屋に流れ込むのを静かに待っているのが至福だった。
ルリカケスは教会にもいた。風の通る教会の敷地には大きな樹木があり、木の周りにたくさんの花が咲いていた。そのころの人間の世界は騒がしくなりつつあった。目の前の大きな木に抱きつくと、まるで疫病なんて存在しなかったように、木肌はすべらかであたたかく、安心した。
最終日、空港へ向かう道すがら、奄美クレーターに立ち寄る。風が強く、波の音も生物の息もすべて風が飲み込んでしまっていた。まるで嵐の前のような天候の中、2本の足を砂に突き刺して島豆腐を頬張っていた。帰りたくないと思っていた。そう思えば思うほど風も強まるような気がした。
いつしか堕ちてきた隕石の、ぽっかりとくぼんだ溝に海水が流れ込み、揺れている。砂浜に美しい弧を描く奄美クレーターは、だんだんと大きな目玉のように見え、じっと海原を眺めれば、巨人のコンタクトレンズに溜まった涙にも思えた。わたしたちは涙の淵に立っている。
「家に帰るまでが遠足やで〜」とミロコさんの旦那さんが歌うように言った。
*
「あめみず、うたこえ」
梅雨のさなか
ぽたぽた天から堕ちてくる
あめ みず
口を開ければ
うた こえ
命のかたまりが
鼓動と共にしている
皮膚という
ある一定の境界線を模して
わたしたちはいれものでいる
今日も明日もだ
まるでめいめい分かれてでもいるかのように
確かに分かれてはいる
いるのだが そのようなことではなく
あなたを想うとき
確かにわたしの中にあなたが存在する
そちら側のことだ
このしづくたちは
少し前はどこで、何だったか
名前がなく、変幻自在に
私たちの棲むいれものへと
出たり入ったりを繰り返している
天 未づ
雨た 呼え
この声が響くとき
宙に放たれているのは
循環の途中にいるものたち
ちいさなcreatureたちが発光して
次々に放たれてゆき
天 未づ
雨た 呼え
その群の海まで一直線に走ってゆく
蛙たちが鳴いている
目を閉じればいさなのうたが鳴っている
陸では風が、海では泡が
祝祭をたばねて待っている
星が流れる
どうしてこんなにも
耐えきれぬほど愛しいことが
つぎつぎに行われるのだろう
一つ一つ受け取り
すべて取り込んでしまうと
このいれものはすぐに破けて
境界線を失い終わるだろう
だから取りこぼす
忘れていく
不完全でいる
ときに道をはずれ傷ついてみたり
遠まわりで見つけた楽園で
歳を重ねたりしてみるのだ
止まぬ、雨た
ぽたぽた天から堕ちてくる
なみだは海からやってきた
あめ みず
うた こえ
わたしたち
music & text:Ichiko Aoba photo:Kodai Kobayashi