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一人暮らしの始まりは、谷中で。昔ながらの空気が残る街。写真と文:ササキアイ (文筆家) #1June 03, 2025

一人暮らしの始まりは、谷中で。昔ながらの空気が残る街。写真と文:ササキアイ (文筆家) #1

社会人になってまもなく、憧れだった谷中の街で一人暮らしを始めた。もう30年近く前のことだ。

JR日暮里駅の北改札を出て、谷中霊園を左手に見ながら、ゆるやかな坂を上っていく。坂をのぼり切ると、有名な階段「夕焼けだんだん」が現れ、谷中の顔ともいえる「谷中銀座商店街」へと繋がっている。

一人暮らしの始まりは、谷中で。昔ながらの空気が残る街。写真と文:ササキアイ (文筆家) #1

最近では、酒屋の店先にビールケースを積んでテーブルにした立ち飲みコーナーが人気のようで、近隣の店で調達してきた焼き鳥やメンチカツをつまみに一杯やる人たちで、いつ通っても大賑わいだ。

一人暮らしの始まりは、谷中で。昔ながらの空気が残る街。写真と文:ササキアイ (文筆家) #1
有形文化財に指定されている観音寺の古い「築地塀」。一人暮らしの始まりは、谷中で。昔ながらの空気が残る街。写真と文:ササキアイ (文筆家) #1

その商店街の手前を左折し、屋上庭園や建物全体が作品のように美しい『朝倉彫塑館』を通り過ぎる。有形文化財に指定されている観音寺の古い「築地塀」の小径を進むと、その先が私の住むアパートだった。

日当たりの良い二階建ての2階。家賃は手取りの3分の1以下に収めるのがベター、ということを何かで知って以来、目安にしていた金額をほんの少しオーバーしていたが、頑張れば徐々に給料は上がるだろうという期待も込めてその部屋に決めた。学生の頃からの念願だった街で、私は人生初の一人暮らしをスタートした。

谷中周辺は広大な霊園や寺社が多いためか、都心の割に空が広い。それだけで少し呼吸が深くなるような、ゆったりした気持ちになる。その印象は初めてこの街を歩いた時から数十年経った今でもあまり変わらない。

若い世代が経営する様々な店が急激に増えたものの、古い建物を活かす形で営業している店が多いのも、この街の特徴の一つだと思う。減ってきてはいるが昔ながらの商店も健在で、それらが自然に共存している。

しかし、そういったこの街の魅力にきちんと気づけたのは、結婚を機に別の土地で暮らすようになってからだった。

当時アパートの周辺には数軒の銭湯があり、最も近い『初音湯』へは歩いて3分ほどで行くことができた。もう何年も前に取り壊されて今は住宅になっているが、その『初音湯』の隣にあった「萩荘」というアパートは、現在『HAGISO』という名前の、驚くほどおしゃれな複合施設に生まれ変わっている。

『HAGISO』一人暮らしの始まりは、谷中で。昔ながらの空気が残る街。写真と文:ササキアイ (文筆家) #1

私が暮らしていた頃でさえ、今どき珍しいと感じる昔ながらの古い作りのアパートだった「萩荘」。その後、藝大の学生のためのアトリエ兼シェアハウスを経て、解体の予定だったところを、ここを「残したい」と願う人たちによって現在の形になったそうだ。

建物全体を活かしながら、カフェ兼ギャラリー、日替わりで施術メニューが変わるサロンなどが営業している。

階段の傍には、私があの頃いつも目にしていた「萩荘」の表札が掲げてあり、コの字の階段を上がった先の廊下と二階の部屋の構造は、きっと昔のままなのだろうと想像できた。

 

『HAGISO』一人暮らしの始まりは、谷中で。昔ながらの空気が残る街。写真と文:ササキアイ (文筆家) #1
『HAGISO』一人暮らしの始まりは、谷中で。昔ながらの空気が残る街。写真と文:ササキアイ (文筆家) #1

運良く座れた一階の『HAGI CAFE』でコーヒーを飲みながら店内を眺めていると、若い女性たちやカップルに紛れて、あの頃の自分がどこかに座っているような気がする。
 
思い出の場所の多くは、長い時間の中で次々と失くなっていくけれど、この街は“接ぎ木”のようにその味わいを受け継ぎながら、新しいことが始まり続けている場所だと思う。

だから何度も来たくなる。来るたびに懐かしい記憶の中の「地図」と、「今」を重ねながら歩いている。


文筆家 ササキアイ

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東京出身。会社員として働く傍ら、Webメディア、フリーペーパーなどでエッセイを執筆。2024年8月に初の商業出版となるエッセイ集『花火と残響』(hayaoki books)を上梓。

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