MOVIE 私の好きな、あの映画。
『お早よう』選・文/岡本仁(編集者) / January 20, 2016
This Month Theme心が整えられる。
岡本仁(編集者)
心地良さを感じるテンポと会話。
日々の変化のスピードが速くて、それに遅れないようにしようと思うと、無意識のうちにたくさんのことを無理を承知で自分に課してしまいがちになります。そしてだんだん息苦しくなっていくのです。そんな時は、小津安二郎監督の『お早よう』を観ます。自分にとって気持ちの良いテンポってどんなだっけ? と考えるための減速をするブレーキの役割を、この映画が担ってくれるからです。
映画の面白さを説明しようとしてストーリーを書いてしまうのは、いわゆる「ネタバレ」になるので本来は避けるべきことでしょうが、この映画に関しては、その部分はあまり心配しなくても大丈夫なような気がします。何しろほとんど事件は起きないし、驚くような結末が用意されているわけでもありません。
時代はこの映画が製作された1959年頃。舞台は東京郊外にある新興住宅地。そこで繰り広げられる複数の家族のスケッチです。毎日が同じことの繰り返しばかりでつまらないと感じている中学生と小学生の兄弟が、テレビを買って欲しいとダダをこねて父親に叱られ、その夜から口をきかないという手段で反抗する。こう書くと、何か物語りが始まりそうな気配もありますが、小津監督は徹底して『お早よう』が「人間味あふれる映画」になることを排除しているようにさえ思えます。登場人物たちが住んでいる似たような間取りの家は、物が少なくガランとしていますし、台詞も短く、さらに感情が昂るような言葉も使わず、相手の言葉を受けてから必ず一定の間をおいて答えるという、ゆったりとしたテンポで会話がぽつりぽつり続きます。平凡な生活にも実は平凡ではない何かがあるのだと描くことで成立する映画が多い中、小津監督は「平凡な生活はずうっと代わり映えしないし、何も特別なことは起きない。だからこそ幸せなのじゃないか」というメッセージを伝えようとしているのかもしれません。
より速く、より多く、より面白くと急きたてられる世界においては、もはや顧みられることさえなさそうな単純なギャグが、『お早よう』ではとても大きな役割を担っていて、観る者のクスクス笑いをやがて爆笑に変えていきます。新しく入ってくるものがあまりなければ、いまあるものを繰り返し楽しめばいいのだし、そのことで深さや豊かさが増すものだということを、教訓めいた話法を用いずに、あくまで淡々とした積み重ねによって自然に気づかせてしまう。いま自分が尺度にしていること自体をフラットな状態に戻してくれて、そんなに求めるものを増やすと苦しくなるよと諭してくれる。『お早よう』には、ある特定の時代へのノスタルジーとは無縁な、いつでも精神を安定させてくれる普遍的な効能があるようです。だから飽きずに何度でも繰り返して観てしまうのでしょう。