LIFESTYLE ベターライフな暮らしのこと。
自宅で私設図書館「木林文庫」を営む須山実さん・須山佐喜世さん夫妻。その暮らしの場で、人と出会い、働く。後編June 02, 2025
夫婦二人三脚で編集出版事務所〈エクリ〉を営み31年。自分たちが「本当に出したい」と思う本を手がけ続けてきた原点は、パリの古書店で出合った一冊の詩画集だという。自宅は、都内の築50年の集合住宅の一室。そこは、暮らしの場であり仕事場であり、本づくりをきっかけに生まれた私設図書館でもある。蔵書に囲まれたその部屋を訪ね、二人の道のりを聞いた。
2025年7月号「素敵に生きる人の、働き方」より、前編・後編に分けて、WEBで特別に紹介します。
そうするより他はないなら、やってみればいい。

ブロークの詩画集に抱いた思いが一本の道となり、その道は今も続いている。どんな職業人生にも、振り返れば「今に至る原点」があるけれど、その原点がはっきりと、揺るがずにあることほど強いものはない。それは、誰にも変えることのできない、その人だけのものだから。
帰国後、実さんは出版社に勤めたが、40代前半に独立し、〈エクリ〉の前身となる編集事務所を立ち上げる。組織の中での共同作業には向かないな、と感じてのことで、独立は「やむをえず」。経済産業省の外郭団体の仕事をしたり、佐喜世さんがロシア語の翻訳をしたり。その時々でできることをしながら生計を立て、いよいよ出版も手がけるようになったのは、50代半ばのことだ。
記念すべき1冊目は、実さんが敬愛するフランスの詩人、ポール・エリュアールとアンドレ・ブルトンの詩に、画家・宇野亜喜良の挿画を添えた『恋愛』。呼応するような言葉と絵の関係は、20代で衝撃を受けたブロークの詩画集の影響がある気がする、と実さん。静けさと熱情が同時にあるような独特の空気感は、以後の〈エクリ〉の本、すべてに通じる。

それにしても、版元となり出版を手がける、となれば、持ち出すお金やら抱える在庫やら、かかる負担は想像以上。
「でも、僕らが出したい本って、大手の出版社に持っていっても、企画が通らないんです。通らないなら、自分たちでやるしかない。他に方法がないというか、これも、やむをえずです」
そうするより他はないなら「やってみればいいんじゃない?」と背を押したのは、佐喜世さんだという。
「決断は、彼女のほうが早い。書店営業なんかも全部、二人でキャリーバッグに本を詰めて、随分あちこち行きました。思えば、よくやったよな」と実さんが振り返ると、「楽しかったわよね」と佐喜世さん。〈エクリ〉のことを、実さんは「一人出版社ならぬ、二人出版社」だと説明するのだが、それも納得、動力の大本は、佐喜世さんの明るさと強さだ。

佐喜世さんは10代の頃、ネフローゼにかかり、2年間ほとんど寝たきりの療養生活を送った。結婚も出産も無理だろうと言われたけれど、結婚して息子を3人産み育て、その後、膠原病や甲状腺の病を患ったものの、「全部治っちゃったのよ」とサラリ。そして言う。
「治ったってことは、強いんじゃないかしら。心身ともに」

出版は年に1冊。長年温めてきた企画をゆっくりと、けれど着実に形にしてきた。エリュアールが娘のために書いた童話『グランデール』は、パリ時代に原書と出合い、30年近く経っての2009年に実さんの翻訳でみずみずしくも幻想的な絵本として出した。
「これいいねって言ってから出すまで、長いんです。僕らは。のろいだけですけど(笑)、でも、もっとハイペースに何でも作りたいとは思わない。やっぱり“この人の本を作りたい”と思うことがすべて。惚れ込んで、惚れ込んで作る」
次に出したい本のことを朝に晩に話す。それが楽しみであり「木林文庫」に来る人との語らいも一体となって、二人の仕事と日常がある。
須山 実、須山佐喜世〈エクリ〉、「木林文庫」主宰・編集者/編集者・翻訳家
実さんは1948年生まれ。佐喜世さんは’49年生まれ。’94年に〈エクリ〉創業。ロベール・クートラスの作品集『僕の夜』、アンドレイ・タルコフスキーの『ホフマニアーナ』など20冊近い本を出版。東京・学芸大学の私設図書館「木林文庫」は金・土曜限定で予約制。
photo : Keisuke Fukamizu illustration : Isabelle Boinot text : Tami Okano