BOOK 本と言葉。

作家・朝井リョウさんが語る、さくらももこさんの言葉の魅力。August 18, 2024

折に触れて思い出す、忘れられない言葉はきっと誰にでもあるはず。では、自らも心の機微を紡ぐ言葉の名手たちの心を震わせた一節とは。特集「明日を生きるための言葉」では、作家、詩人、エッセイスト……など、6人の言葉の名手に、心に残る書き手とその言葉を教えてもらいました。ここでは、作家・朝井リョウさんへのインタビューを特別に公開します。

作家・朝井リョウさんが語る、さくらももこさんの言葉の魅力。

朝井リョウさんが選んだ、さくらももこさんの言葉。

 風呂場の窓が、昼の光で輝いていた。ホースから出ている水がキラキラ輝いていた。水しぶきも 全部輝いていた。このろくでもない風呂場全体が、虹色に包まれているように感じた。 水が輝きながら流れているのを見て、私は将来、エッセイを書く人になりたいな……と思った。 エッセイを書く人は、エッセイストと呼ばれている事もまだ知らなかった。

さくらももこ Momoko Sakura
1965年静岡県生まれ。漫画家。’84年『りぼん』でデビュー。’86年『ちびまる子ちゃん』連載開始。’91年初エッセイ『もものかんづめ』がベストセラーに。ほかに漫画『コジコジ』、エッセイ『あのころ』(すべて集英社)など多数。’18年永眠。

ああ、こんな気持ちだったんだ。とわかる瞬間。

 かねてより、作家としての原点にさくらももこのエッセイがあると発言してきた小説家の朝井リョウさん。「とにかくゲラゲラ笑いながら読めるところが好きなので、あんまり『心に残るこの一文!』みたいな感じで味わうものでもないところがありまして……」と戸惑いつつも、一つの情景を挙げてくれた。

 さくらももこの青春時代を描いた自伝的エッセイ『ひとりずもう』(集英社文庫)に収められた「方向転換」というタイトルのエピソード。《ろくでもない風呂場全体が、虹色に包まれているように感じた》のは、投稿作品がなかなか採用されずに悶々としていた彼女が、ストーリー漫画ではなくエッセイ漫画を描くことを閃いた瞬間のこと。高校3年、デビュー前のさくらももこに訪れた、重要なターニングポイントである。「本当にこうなることがあるんですよね」と朝井さんは言う。「さくらさんはこの後、虹色に輝く風呂場を出て、近所の文房具屋に向かって走りだします。僕はこのお風呂場のシーンを読み返すたびに、長編小説を成立させるための〝ハブ地点〞を見つけられたときの瞬間をすごく思い出します。つい最近も悩み抜いていた小説の設定について、そこさえクリアすれば作品が成立する、というポイントを見つけて、まさに暁光差すという感じがしました。これしかない!ということを思いついて、いてもたってもいられず駆けだすような感覚、さくらさんの心情が、今になってよくわかります」

 小学生の頃、実家の脱衣所、階段、トイレなど、手を伸ばせば転がっていたさくらももこのエッセイ。それらから「いい意味で何も言っていなくて、教科書的に作者の意図を読み取る必要もない。ただただ文章を読むのは楽しいことである、という体験を最初にもらった」という朝井さんは、一方で5歳から物語を書き、小学6年生で小説の投稿を始めた。ずっと書き手として過ごして「あ、さくらさんの言っていたのは、この感じだったんだ」とわかることがあるそうだ。「やっぱり『ひとりずもう』で描かれる投稿時代の話は、自分と重なることが多いなと感じます。僕が初めて文学賞の一次選考を通過したのは高校3年生のとき。今はもうなくなっちゃった駅の近くの書店に、放課後一人で行って、『小説すばる』が置いてあるのを見て、開くと自分の名前が載っていた。このときも、さくらさんが初めて自分の名前を漫画雑誌で見つけ《腰が抜け、尻もちをついた。そしてそのまま数秒間立てなかった》と書いたことが頭をよぎりました。さくらさんと全く同じようなことが自分の身に起きて、こういうことかと思いました」

さくらももこの『あのころ』の、顔を合わせれば《「おはよう」 とぐらいは言う関係ではあったものの、そんな事ぐらいオウ ムでも言うので親しさとは関係がない》という一文。突き放 すような「オウム」の色気に朝井リョウさんは痺れたという。
さくらももこの『あのころ』の、顔を合わせれば《「おはよう」とぐらいは言う関係ではあったものの、そんな事ぐらいオウムでも言うので親しさとは関係がない》という一文。突き放すような「オウム」の色気に朝井リョウさんは痺れたという。

 朝井さんには、デビューからの10年間に上梓したエッセイ『時をかけるゆとり』『風と共にゆとりぬ』『そして誰もゆとらなくなった』(すべて文藝春秋)がある。3部作構成も、徹頭徹尾くだらなさにこだわり抜いた内容も、もちろん、さくらももこのエッセイ3部作『もものかんづめ』『さるのこしかけ』『たいのおかしら』(すべて集英社文庫)に倣ったものだ。「小説の場合は、ハッピーエンドもバッドエンドも、どう捉えるかは読み手に委ねられている。書いてしまった後は作者も手出しできないといったところがあります。でも私にとってエッセイは、面白くなかったら負け。読後、笑えなかったと言われたら失敗なんです。だから緊張感があります。でも、一撃で人を笑わせるようなエピソードって、人生には意外と起きない。内輪受けに終始して読者が鼻白まないように。加えて、くだらなさを共有できるように書くことがとても難しい」。出来事だけで面白がらせようとすると刺激がどんどん必要になる。後年のさくらももこのエッセイに、ケレン味のある海外旅行記や仲間内の体験談が増えたのも、そんな理由かもしれないと朝井さん。

 しかし、さくらももこの真骨頂は、やはり書き方で読ませるところだという。「くだらない内容こそ大真面目な表現で書くとか、バチッとした言い切りを使うとか、さくらさんの表現のテクニックは絶妙です。馬鹿馬鹿しさを一行の刺激で笑わせるのではなく、塩ひとつまみくらいの匙加減で、地の文の一行ずつの味を濃くしていく感じ。それが積み重なって、読み進めるとどこかで溢れちゃう。それがすごく好きです。なんでもない部分の文章でクスッとさせることができると、なんでも面白くすることができるのだと学びましたね。スパイスの利かせ方がたまらないな、勉強になるな、と読み返すたびいつも思います」


朝井リョウ Ryo Asai作家

1989年岐阜県生まれ。小説家。2009年「桐島、部活やめるってよ」で第22回小説すばる新人賞を受賞しデビュー。’13年「何者」で第148回直木賞受賞。’21年「正欲」で第34回柴田錬三郎賞を受賞。今秋、最新長編小説『生殖記』が刊行予定。

photo : Manami Takahashi text : Azumi Kubota

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