MOVIE 私の好きな、あの映画。
『CAFÉ BARNEY』オーナー・原田雅之さんが語る今月の映画。『あの夏、いちばん静かな海』【極私的・偏愛映画論 vol.88】March 25, 2023
This Month Theme音楽センスに痺れる。
シンプルなモノに惹かれます。
それは、飽きのこない、そう、何気ない日常のようなモノ。使い続けていくと心身に馴染み、モノの形、その奥にある様々な表情を見せてくれるから。映画は好きな作品を繰り返し観ることが多いです。その時その時の気分、感じ方で、新しい発見があり、それにより自分の現在地を知ることが出来るから。
「物事の決め事を、一度ははずして考える」監督、北野武の姿勢です。正面だけでなく多方面から物事を見て、あらゆる角度に可能性を求めることを大切にされています。
物語の主人公は聾唖のカップル、茂と貴子。茂は仕事の途中に捨ててあったサーフボードを拾う。そしてサーフィンに挑戦し、練習に明け暮れる。そんなひたむきな茂を貴子は優しく見守る。やがて、サーフボードは壊れ、働いて稼いだ給料で新品を買い、また練習に明け暮れる。没頭する茂に、サーフショップの店長が手を差し伸べ、サーフィン大会の申込書を渡す——。
過剰な演出がない、淡々としたストーリーゆえ、「日常にこそ、ドラマがある」と思わせてくれる映画です。静けさの裏には、音楽を状況説明や感情誘導としてではなく、セリフや手話のない茂の心情にニュアンスを加える、という挑戦があります。この久石譲の音楽による心象表現は、青さを強調した画と寄り添うように美しく漂っています。
終盤、貴子が傘をさし、いつものように茂のいる海へ向かうシーンがある。彼女の傘に降り注ぐ雨のような、エリックサティ風のピアノ曲「Clifside Waltz 1」を初めて聴いた時、この画と音が僕の心に沈み込みました。少年期の僕がその時何を感じたか、もはや言葉には出来ません。言葉にするには僕は年を取りすぎたようです。胸の奥、心の暗い底へ沈んでいった感情に光を当てて掬い上げ、向き合うために、その後も繰り返し観続けることになる、ということが確かな手触りとして存在しています。
物語の序盤、純真無垢にサーフィンを「始める」茂の姿も強く心に残ります。そして彼を見守る周囲のさまざまな愛情表現を一纏めに肯定しているような「Island Song」という曲に感激します。ミニマルなリズムに柔らかいサックスとピアノ。時の移ろい、前向きさ、その温かさを感じさせるムードはJoan Bibiloni「Val,i Vuw Ya」にも通ずるエモーショナルな世界があります。この曲はサーフィン大会へ「向かう」シーンでも使用されています。保身よりも前進することを選ぶ、純粋な茂の姿に励まされます。
最近、この作品を観たときは、茂が2度目のサーフィン大会に挑む、波の音と場内アナウンスだけの極めて日常的なシーンに痺れました。本来ならば、このシーンでは状況を盛り上げるための音楽が必要だと思うのですが、敢えて排しているように見えます。
波の音とアナウンス、そして仲間たちの話し声。これが見事に「音楽」しているのです。まるで平和な世界に流れる、平和な音楽のよう。しん、とした茂の心情、心の中を覗いているような、不思議な感覚になります。
観る度に新しい発見のある、茂たちの日常。人は日々変わり続ける考え方、無意識を持ち、生きている。茂たちの意識の移ろいに出合うことで、僕自身の“現在地”を確かめたい、と思うのです。