MOVIE 私の好きな、あの映画。
選曲家 吉本宏さんが語る今月の映画。『浮草』【極私的・偏愛映画論 vol.118】September 25, 2025
This Month Theme美しい振る舞いに見惚れる。

永遠に魅せられる、小津映画。
小津安二郎監督の映画の中で“美しさ”を極める1本を挙げるなら『浮草』(1959年)。アグファカラーによる総天然色で撮られた映像の中に際立つふたりの俳優、若尾文子と京マチ子の美しさにはいつも見惚れてしまいます。
まずは、若尾文子演じる加代が、郵便局員の清を訪ね電報用紙に書くシーン。
加代「電報用紙ちょうだい」
清「はい」
加代「鉛筆も貸して」
清「ここにペンあります」
加代「あたしペンでは書けんの、貸して鉛筆」
加代「(電報を差し出し)はい、お願いします」
清「そこまで来てくたさい(電報を読み上げる)」
加代「ちがう、来てくださいや」
清「宛名は」
加代「あんたや」
この短いやり取りの中で、加代は鉛筆の先をちょっと舐めて電報用紙に清への誘いの言葉を書きます。この時の鉛筆を舐めるしぐさは若尾文子の即興だったそうですが、最小限の会話や振る舞いに小津の美学が凝縮されています。匂い立つような若尾文子の美しさはこの映画の中でも特に強烈な印象を残します。
そして、京マチ子演じるすみ子が中村雁次郎(二代目)演じる駒十郎と土砂降りの雨の中、通りを挟んだ軒下で罵りあう場面でも、雨の隙間に浮かび上がる京マチ子と中村雁次郎が互いに睨みを利かせた立ち振る舞いは一際印象的。赤い唐傘をアクセントにしたふたりの遠景ショットも美しい大好きなシーンです。
『浮草』は、三重県志摩を舞台に、旅回りの一座の役者たちを中心にある夏のできごとを描いた人情物語。この映画は、常に松竹で制作した小津が、『彼岸花』で大映の山本富士子を借用した返礼に大映で撮った1本。そのため、大映の看板俳優であった京マチ子や若尾文子など、通常の小津組とは異なる俳優やスタッフで撮影されました。小津映画には珍しく艶やかなシーンも多く、それまで小津はドラマがかったものを嫌っていましたが、この大映陣と撮った『浮草』でドラマの面白さを感じたと語っています。カメラは大映の宮川一夫。松竹での厚田雄春のカメラにも匹敵するほどに小津の美学を理解していました。
小津映画は時として、いくつもの映画のシーンが混然一体となって区別がつかなくなることも多いのですが、その中でこの作品だけはどのシーンも一目で『浮草』だと判ります。そして観るたびに愛おしいカットも増えていきます。松竹の小津映画を“静”とするなら、大映のそれは“動”。この対比もこの映画に特別な魅力を感じる理由のひとつだと思います。小津の静的な美学が大映の俳優陣の艶やかな振る舞いによって昇華され、独特のハイブリッド感が生まれました。
夏の志摩が舞台であることも、小津映画としては珍しく独特の湿度と熱気を感じる理由でしょう。作品を観るたびに夏の港町の匂いを思い出します。実は、かつて『浮草』の面影を探してロケ地であった志摩の波切を初夏に訪ねたことがあります。冒頭のシーンに映された白い灯台や急な坂や階段の多い古い港町は60年以上経ったいまでも僅かにその息づかいが感じられ、家並みの先から不意に真っ白い着物の加代(若尾文子)が現れるのではないかとドキドキしました。そして、その時、折からの温帯低気圧の影響で時折激しく降る雨は、古い家屋の屋根瓦に打ちつけ、その風景はさながら駒十郎(中村鴈治郎)とすみ子(京マチ子)が土砂降りの雨の中で激しく罵り合うシーンに重なって見えたほどです。


『浮草』
Director
小津安二郎
Screenwriter
野田高悟
小津安二郎
Year
1959年
Running Time
119分
illustration : Yu Nagaba movie select & text:Hiroshi Yoshimoto edit:Seika Yajima