MOVIE 私の好きな、あの映画。

『小さなタイ食堂トコ』主宰、タイ山岳民族料理研究家 牧野理恵さんが語る今月の映画。『青いパパイヤの香り』【極私的・偏愛映画論 vol.120】November 25, 2025

This Month Theme台所が気になる。

『小さなタイ食堂トコ』主宰、タイ山岳民族料理研究家 牧野理恵さんが語る今月の映画。『青いパパイヤの香り』【極私的・偏愛映画論 vol.120】

自然と溶け合い心を繋ぐ、アジアの台所。

この映画に映し出される台所は、四角い部屋の中ではない。建物の屋外に設置されたアジアの台所は、壁がなく開放的。外の光が降り注ぎ、風が自然と通り抜ける。窓の木枠のすぐ外には、パパイヤが実り、小さな動植物がすぐ目の前で生の営みを絶え間なく繰り広げている。

初めてこの作品を観たとき、まるで自分が映画の中の台所にいるかのような親しみの気持ちを覚え、胸が熱くなった。薪火の上の熱々の鍋で空芯菜やかぼちゃの蔓をジュッと炒める音が五感を刺激する。背の低い椅子に腰を掛け調理し、賄いを食べ、大きなたらいで皿を洗う姿も印象的だ。異国の生活のリズムや手触り、女性たちが受け継いできた身体の記憶までもが映し出されているかのようである。

物語の舞台は1951年のサイゴン。主人公の幼い少女ムイは、ある家に住み込みの女中として迎えられる。台所からは「トントンカンカンシュシュシュ」と、料理が生み出されていく活気ある音が聞こえる。ムイは、彼女の母親くらいの歳の女中から、火おこし、火加減、青パパイヤを削る手つきなど、台所での作法について、厳しいしつけを受ける。やがて、家族の秘密が露出し始める。息子たちとのやりとり、日々の小さな仕事の繰り返しが、彼女の心を育んでいく。成長したムイは、青年クエンの家へ移り住み、彼の食事を作るようになる。この台所シーンもとても美しい。台所の香りと日々の営みに導かれながら、ムイの胸に秘められた淡い想いがそっと芽吹き、彼女の人生は静かに変わり始める。

言葉を極力排したミニマルな表現で展開され、ノンバーバルな演劇や静かなアート作品に対峙しているかのような感触がある。一つひとつのシーンの素材の美しさや表情、心の動きが際立つ画と音楽が心地いい。鮮烈に胸に残るのは、タイトルにもある青パパイヤを、ムイが真っ二つに割り、中からたくさんの種が溢れるシーン。美しい光に照らされた命の輝きに満ちている。ところどころに、生(性)を表すイメージが差し出されているかのように受け取った。

私がフィールドワークを続けているカレン族(主に北タイの山岳部に暮らしている少数民族)の言い伝えの詩に、たくさんの種ができる瓜や南瓜が子孫繁栄の象徴として登場するのを思い出す。腰掛の彼女たちの目線のような、低い位置からのカメラワークや、台所越しに部屋の外から中を映す構図も印象的だ。当時のベトナムの一家の暮らしぶりを、匂いや温度と共に語ってくれる。それぞれにとって幸せとは何か、と問われているかのようだ。

台所は料理を作る場所であり、体を癒やし、日々の疲れをほぐす場所だ。私が親交のある山岳民族のお母さんも人と自然を結び繋ぐ空間だと、いつも料理を通して語ってくれる。作中にも、世界のいろいろな場所の台所で受け継がれている精神が美しく流れているのを感じた。人を想う場所としての台所に、あたたかくて強い生命力を感じられ惹き込まれるものがある。自由に連想を広げ、反芻できる“間”が、この映画をより味わい深いものにする。
自然の実りや光と溶け合う異国の台所風景に見惚れ、思わず「ムイ、頑張れ」と心の中で応援しながら、もぎたての青パパイヤのソムタムやかぼちゃの蔓の炒めを作り、家族や友人と食卓を囲みたくなる。台所は本当に愛おしく尊い。

1216-and-movie-chart
アジアの台所に漂う香りと光や温度が心地よい、異国の旅の記憶のような映画。レトロな色彩と調度品に囲まれた空間で、一人の女性の成長と静かに芽生える恋、人間模様と自然の営みが描かれる。“余白の美”に満ちた映像詩。
Title
『青いパパイヤの香り』
Director
トラン・アン・ユン
Screenwriter
トラン・アン・ユン
Year
1993年
Running Time
104分
----------------------------------------------------------
『青いパパイヤの香り』
DVD&Blu-ray発売中
¥4,180
発売元:カルチュア・パブリッシャーズ
販売元:株式会社ハピネット・メディアマーケティング
(C) 1993 LES PRODUCTION LAZENNEC
----------------------------------------------------------

illustration : Yu Nagaba movie select & text:Rie Makino edit:Seika Yajima


『小さなタイ食堂トコ』主宰、タイ山岳民族料理研究家 牧野理恵

東京、チェンマイ(タイ)を経て北海道、旭川市に移住。2021年、旭川にて『小さなタイ食堂トコ』をオープン(現在、美瑛に移転準備中)。北タイの山岳民族の家庭に通い、食文化の豊かさや生きる知恵、土に近い暮らしに魅せられる。北タイの食文化、薬草文化、音楽など暮らしまわりの叡智を学ぶことで自然との繋がりを深め、日本の食文化に関する知見を広げている。食堂、ケータリング、料理教室、イベント企画の運営のほか、民族集落の案内やコーディネートなど多角的な活動を行う。

instagram.com/toco_159

Pick Up 注目の記事

Latest Issue 最新号

Latest Issuepremium No. 145料理好きの台所。2025.11.19 — 980円