Recommendation

October 20, 2017〔PR〕 The History to be Inherited by MIKIMOTO

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神秘的な真珠を最初に人の手を介して育てた〈ミキモト〉。
その成り立ち、制作過程、伝統と新しい視点、ブランドの確立と、
日本を代表するジュエラーの、時代を超えてきた軌跡をたどる。

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”ユニバース エレメンツ”のリング。着ける角度によって表情が変わる。リング[アコヤ真珠×ダイヤモンド×WGK18]
各¥450,000*銀座4丁目本店先行販売(ミキモト/ミキモト カスタマーズ・サービスセンター)

真珠養殖に初めて成功。日本のパールを世界へ。

〈ミキモト〉のパールは、長年にわたり世界中の女性たちを魅了してきた。日本を代表するジュエラーとなり、特にパールジュエリーに関しては、質の良さや種類の豊富さなど右に出る者がいない。〈ミキモト〉がここまでパールのオーソリティとなったのは、世界で初めて真珠養殖に成功したことが大きい。その始まりは、創業者である御木本幸吉の奥に眠っていた尽きないバイタリティや、先を読む力、そして強い信念に基づくパイオニア精神が彼を突き動かした末の出来事だった。
御木本幸吉は江戸末期、1858年に志摩国鳥羽町(現在の三重県鳥羽市)で生まれた。家督を継ぎ、早くから商才を発揮し始めた彼は、故郷の志摩で採れる豊富な海の幸の特産物を商売で扱ううちに、アコヤ貝の中で育つ天然真珠に魅了される。当時の天然真珠はアコヤ貝から偶然見つかるものであり、志摩ではもちろん、世界的にもとても貴重だった。そのため母貝であるアコヤ貝の乱獲が激しく、絶滅の危機にさらされていた。幸吉はアコヤ貝の保護、増殖に奔走するなかで、アコヤ貝の養殖という手立てを考え始め、人の手でアコヤ貝から真珠を作るという、真珠養殖の道に目覚めていく。
とはいえ、そもそも真珠がアコヤ貝からどう生まれるかもわからない。手探り状態から研究を始め、動物学の権威者のアドバイスを受けて、試行錯誤の末にようやく実験にこぎつける。しかし失敗を繰り返し、資金繰りも悪化。それでも根気よく研究を続けた結果、1893年にようやく鳥羽の実験場のアコヤ貝の中に半円形の真珠を発見。その12年後の1905年には真円の真珠の養殖にも成功した。
1899年、東京・銀座に『御木本真珠店』をオープンさせた幸吉は、1906年に銀座4丁目へ移転。養殖事業の開始当初から抱いていた、日本のパールの魅力を世界へ伝えるという使命を胸に仕事に邁進する。すでにニューヨーク、パリなど各国の万国博覧会に養殖真珠の工芸品を出品し、画期的な真珠養殖の成功は海外でも話題に。店には日本に住むヨーロッパやアメリカの人々が頻繁に訪れ、顧客のほとんどは外国人で占められていた。また、若い頃からメディアの影響力を熟知していたことから、英字新聞に広告を出し、パールジュエリーや店の存在を欧米の人々に知ってもらえるよう積極的に働きかけた。広告宣伝の方法は、幸吉が1954年に亡くなった後も、時代の変化とともにカタログや雑誌広告などに形を変えて、〈ミキモト〉ブランドを浸透させる一端を担った。ビジュアルもイラストや文字をデザインしたものから、写真表現へと移る。1950~60年代には、広告写真によって、限られた人たちだけのものだったパールジュエリーが、一般の人々の憧れの存在として輝き始めることになった。

 
1906年に元数寄屋町の店舗を現在の銀座本店の場所に移転。当時の銀座通り(中央通り)は和風建築が大半を占めていたなか、御木本真珠店は白い洋館でとても目立っていた。
1906年に元数寄屋町の店舗を現在の銀座本店の場所に移転。当時の銀座通り(中央通り)は和風建築が大半を占めていたなか、御木本真珠店は白い洋館でとても目立っていた。
真珠養殖を行っている三重県志摩の英虞湾。台風や赤潮など自然の影響を受けやすいアコヤ貝を、良い環境で育てるために、現在も努力が続けられている。
真珠養殖を行っている三重県志摩の英虞湾。台風や赤潮など自然の影響を受けやすいアコヤ貝を、良い環境で育てるために、現在も努力が続けられている。


右/明治から大正時代に『The Japan Times』『The Daily Japan Herald』など英字新聞に掲載された広告。中/戦後は写真やグラフィックで商品イメージを訴求。1959年『婦人画報』の広告はモードな感覚。左/1964年東京オリンピック案内地図の掲載広告。
右/明治から大正時代に『The Japan Times』『The Daily Japan Herald』など英字新聞に掲載された広告。 中/戦後は写真やグラフィックで商品イメージを訴求。1959年『婦人画報』の広告はモードな感覚。 左/1964年東京オリンピック案内地図の掲載広告。
 
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パールの魅力を最も感じられるシンプルな定番のセット”エトレンヌ”。パールジュエリーセット[ネックレス:約∅7.5~8.5㎜アコヤ真珠×シルバー、全長約40㎝・ピアス:約∅8㎜アコヤ真珠×WGK18]¥450,000(ミキモト/ミキモト カスタマーズ・サービスセンター)

パイオニアとして技術を伝え、新しいスタイルを生み出す。

養殖真珠は、まず約2年間で稚貝を育てる。母貝となった貝の体内に「核」と「外套膜」の一片を移植。さらに約2年間かけて養殖する。極寒の時季に人の手で貝から取り出され、ようやく真珠がこの世に現れる。しかし、真珠の生育は自然に委ねる部分が大きいため、すべてが上質のものに育つわけではない。採取した真珠をプロの厳しい目が選別する工程が待っている。
パールの美しさはどこで決まるのか。色や形、光沢、真珠独特の「巻き」と呼ばれる真珠層の厚み。それらすべての品質基準をクリアした真珠のみが〈ミキモト〉のジュエリーとなる。ネックレスを作る際には、まず色みや光沢を肉眼で確認しながら選別。マッチングという、個性を見極め、隣り合う真珠が一つの輝きを放つよう、同じ色、光沢のものを選び出す工程に。特に“連相”と呼ばれるネックレスの真珠の並びは非常に重要で、連相が整っていることで、身に着けたときにネックラインに美しい調和が生まれる。
創業当初からネックレスは鳥羽で、リングやブローチなどの細工品の制作は東京の工房で行っている。〈ミキモト〉では早くから海外の制作技術やデザインを取り入れ、大正から昭和にかけて独自のスタイルを確立。その“ミキモトスタイル”は、日本の伝統的な錺職の技とヨーロッパの技術が融合したデザイン様式で、これにより細工が複雑化しクラフトマンの技術が格段に向上。ミル打ちやケシ定めなどの高度で繊細な手わざは、今もなお重要な技術として受け継がれている。
「最近はCADなど機械である程度進める部分と手で作る部分とがあって、現代のクラフトマンは両方バランスよくできるのが理想です。人の手も大事ですが、機械は再現性が高いのでやはり必須と言えます。優れたアーカイブの作品には高度な技術が詰まっていますが、その技術をなぞるだけではいけない。伝統を引き継いだ技術をもって、新しいジュエリーを作るのが大切だと思っています」と、クラフトマンになって40年というマエストロ、臼倉信吾さんは語る。
選び抜かれた高品質のパールの魅力は、今では世界のセレブリティたちにも広く伝わるようになった。かつてはマリリン・モンローが〈ミキモト〉のパールネックレスを愛用。女優はもちろん、国内外のロイヤルファミリーからも信頼を得て長く愛されている。
〈ミキモト〉は真珠養殖からデザイン、制作、販売まですべてを自社グループで行う、世界でも類を見ない稀有なジュエラーだ。それは“キング・オブ・パール”と呼ばれた御木本幸吉が、誰もできなかった真珠養殖を初めて成功させた先駆者であり、オリジンであることと相通じている。

 
1954年にマリリン・モンローがニューヨーク・ヤンキースの名選手ジョー・ディマジオと新婚旅行で来日した際、ディマジオから〈ミキモト〉のパールネックレスを贈られた。
  photo : Getty Images
1954年にマリリン・モンローがニューヨーク・ヤンキースの名選手ジョー・ディマジオと新婚旅行で来日した際、ディマジオから〈ミキモト〉のパールネックレスを贈られた。
photo : Getty Images
上/鳥羽で行われている真珠の選別。厳しい基準でセレクトした結果、ジュエリーとなるのはほんの一部。下右/デザイン画は、様々なテーマに合わせて社内の20人弱のデザイナーが描き起こしたものから厳選。〈ミキモト〉のスタイルはここから生まれている。下左/繊細な技術はクラフトマンの誇りとともに過去から現在へ、脈々と受け継がれている。
上/鳥羽で行われている真珠の選別。厳しい基準でセレクトした結果、ジュエリーとなるのはほんの一部。下右/デザイン画は、様々なテーマに合わせて社内の20人弱のデザイナーが描き起こしたものから厳選。〈ミキモト〉のスタイルはここから生まれている。下左/繊細な技術はクラフトマンの誇りとともに過去から現在へ、脈々と受け継がれている。



●問合せ/ミキモト カスタマーズ・サービスセンター ☎︎0120−868254
 
photo : Masahiro Sanbe styling : Yuuka Maruyama (makiura office) edit & text : Akane Watanuki